壬生寺本尊
本尊の霊験が大いに流布する契機となったのが、『太平記』にも収録された壬生地蔵の霊験譚です。南北朝時代、
しかし、その本尊は、昭和37年、本堂と共に不慮の火災によって烏有に帰します。そこで昭和42年に律宗総本山・唐招提寺から重要文化財の地蔵菩薩像が、新たな本尊として遷座されました。幾度の災禍に遭っても、壬生寺の地蔵信仰は途絶える事無く、今日に至っています。特に毎年2月の壬生寺節分会は、壬生寺が京都の裏鬼門を守護する位置にあり、古来から続く伝統行事で、期間中は数万人の参詣者で大いに賑わいます。片や小さな行事では、毎年8月下旬の京都市内各町内で催される地蔵盆において、地蔵の無い町内に壬生寺の石地蔵を貸し出す「貸し出し地蔵」は、壬生寺独特の風習になりました。
また、壬生寺の近隣は幕末に新選組が駐屯した地であり、境内にある隊士の墓所には、訪れる若者があとを絶ちません。境内には地域福祉に貢献すべく、保育園や老人ホームも併設されています。時代により変遷を遂げた壬生寺ですが、その信仰の支えにあるものは、親しみを込めて「壬生さん」と呼ばれるような、庶民大衆から愛される地蔵菩薩を祀る寺であるからなのです。
昭和の火災で失われた旧本尊・縄目地蔵は、昨年平成29年7月、滋賀県山東町の仏師・中川大幹氏に依頼し、復刻に向けて
圓覚上人
壬生寺は、鎌倉時代に伽藍の全てを焼失しますが、信者の
当時、上人の教えを来聴する大衆が数万人にも及んだので、上人は人々から「十万上人」と呼ばれて崇敬されていました。拡声器とてない時代、上人は群衆を前にして、最もわかりやすい方法で、仏の教えを説こうとされたのです。そして、里の人に無言劇に仕組んだ所作をさせて、仏の教えを説く方便としました。これが現在、壬生寺で伝承されている伝統芸能の壬生狂言の始まりです。
壬生狂言は、正式には壬生大念佛狂言と言い、「カンデンデン」の愛称とともに京都の庶民大衆に親しまれてきました。宗教劇から起こった壬生狂言ですが、近世になると演劇的に発展を遂げ、現在演じる演目は30番あります。しかし、能狂言と異なり、全ての演者が仮面を付け、セリフを用いず無言で演じるその形は今も変わらず、その伝承形態が高く評価されて、国の重要無形民俗文化財に京都府下では第1号に指定されたのです。また、壬生寺境内にある狂言を演ずる舞台「大念佛堂」は、安政3年(1856)の再建ですが、その特異な構造から重要文化財に指定されています。さらに、狂言に使用する仮面・衣裳・小道具は数百点を数え、貴重なものが数多くあります。
壬生狂言の定例公開は、春・秋・節分の年3回、計12日間です。特に春の公開は、「
壬生狂言「炮烙割」
このように壬生寺は有形・無形の貴重な文化財を有しています。地蔵信仰から生まれた壬生寺の文化財は、寺の力だけではなく、多くの篤信の人々に依って守り伝えられて来ました。また、京都市文化観光資源保護財団様など、公的なご支援も頂けるようになりました。しかし、昨今の日本の情勢を鑑みると、宗教離れや少子化、文化財の保存維持のための伝統技術や産業の衰退など、文化財保護を取り巻く状況は厳しいと言わざるを得ません。古来より地蔵菩薩は、地獄など苦難の世界にも現れ、我々を救って来られた仏です。今こそ我らがご本尊の信仰を守り、さらに広めねばと決意を新たにしています。