お町内には町会所又は町席(ちょうかいしょ・ちょうせき)と称される公民館があり、そこに住民が定期的に寄り合って、 「町汁(ちょうじる)」や「寄合」などと称して、さまざまな取り決めについて相談しました。 こうした伝統は、明治に入っても受け継がれますが、戦時下における全国一律の町内会の成立と、戦時行政の実行単位としての事業の強要によって、お町内のつながりも変質していきます。 特に、第二次大戦後の都市構造の変化に伴う、都心部の人口流出や、職住分離の進行により、京都の都心部において、都市生活の基礎地域として存立することが難しくなりました。 ![]() 大掃除の風景(昭和10(1935)年頃・京都市下京区荒神町) 明治になるとそうした煤払い以外に、コレラを主とした疫病対策の目的で、7〜10月の夏場に行われるようになります。明治13(1880)年に内務省の指示により各府県に衛生課が設置され、その指導の下、京都市内では各学区ごとに衛生員が設置されました。 昭和に入ると、「衛生掃除」ともいわれ、年中行事化し、夏の風物詩のようになります。衛生掃除の時に店を開けていると肩身が狭かったといわれるように、昭和になれば全戸参加の行事でした。
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