どんどん焼けは自然発生的な火災ではなかったので、人々は大事なものや家財道具を運び出すだけの余裕がありました。山鉾町でも、大切にされていた装飾品などは運び出されましたが、重量のある山鉾の胴組みなどは焼失したため、明治のはじめ頃まで、唐櫃に神号を奉じての巡行を行わざるを得ませんでした。一部を除いて復興し終えたのは、どんどん焼けから10年経った明治7(1874)年のことでした。その後、明治中期には船鉾が、第二次世界大戦後に菊水鉾、綾傘鉾、蟷螂山、四条傘鉾の順に復興して現在に至っています。 第二次世界大戦が激化しはじめた昭和17(1942)年を最後に、山鉾の巡行は4年間中止されました。戦後、もとどおりに復活するのは昭和27(1952)年のことで、この時には、どんどん焼けで焼失した菊水鉾が88年ぶりに復活され、巡行に新しい彩りを添えた。 ![]() 放下鉾の辻まわし(明治後期・四条寺町角)
映像に見る近代京都の生活文化 HOME PAGE |