祇園祭の近代
元治元(1864)年7月19日、会津・薩摩両藩と長州藩とが争った禁門の変(蛤御門の変)による出火で、京都市中は大半が焼けてしまいました。いわゆる「どんどん焼け」です。当時の瓦版によれば、北は中立売通、南は七条通、東は鴨川、西は堀川通の範囲が焼失し、祇園祭の山鉾を出す山鉾町も災禍にありました。
どんどん焼けは自然発生的な火災ではなかったので、人々は大事なものや家財道具を運び出すだけの余裕がありました。山鉾町でも、大切にされていた装飾品などは運び出されましたが、重量のある山鉾の胴組みなどは焼失したため、明治のはじめ頃まで、唐櫃に神号を奉じての巡行を行わざるを得ませんでした。一部を除いて復興し終えたのは、どんどん焼けから10年経った明治7(1874)年のことでした。その後、明治中期には船鉾が、第二次世界大戦後に菊水鉾、綾傘鉾、蟷螂山、四条傘鉾の順に復興して現在に至っています。
第二次世界大戦が激化しはじめた昭和17(1942)年を最後に、山鉾の巡行は4年間中止されました。戦後、もとどおりに復活するのは昭和27(1952)年のことで、この時には、どんどん焼けで焼失した菊水鉾が88年ぶりに復活され、巡行に新しい彩りを添えた。

放下鉾の辻まわし
放下鉾の辻まわし(明治後期・四条寺町角)

 放下鉾の辻まわしの様子を、寺町四条を少し南に下った東側から撮影したものです。画面の手前、放下鉾の進行方向が寺町通で、画面を横に通っているのが四条通。四条通は明治45(1912)年に拡幅されましたが、この当時はまだ幅3間(約5.4メートル)の狭隘な通りでありました。昭和31(1956)年に巡行のコ−スが変更されるまで、放下鉾が属する先祭は、四条通を東進、寺町通を南進、松原通を西進するという順路で、一日かけて巡行しました。
  1. 配線工 帽子を被り、洋装で電柱に上る。巡行の障害となる電線を切断し、巡行後すみやかに補修するために待機しているようです。切られた電線が電柱からぶら下がっています。電柱に立て掛けられた梯子は彼等が持ち運んだものです。彼等は京都電燈株式会社の職員であろうが、洋装の制服は、当時人目を引いたことでしょう。
  2. 街灯 京都では明治22(1889)年に電灯がひかれますが、3年後の明治25(1892)年には、市内の主要箇所にアーク燈による街灯が9基敷設され、明治29(1896)年には、市内に565灯の街灯が整備されました。
  3. 毛せん 虫籠窓は取り払われ、緋毛せんを窓枠から屋根に垂らすように敷く。2階座敷の見物人は、鉾からちまきを投げ入れてもらったり、飲み物などを入れた竹籠を竿竹につけ、鉾上の人に差し入れをしたりして楽しみました。
  4. 火の見からの見物 たいていの民家では、大屋根の上に板敷きの火の見が設けられていました。火事の様子や、その時の風具合をみるだけでなく、山鉾巡行や五山の送り火などの行事にはこの上に登って観覧しました。写真では日除けの幕を張り、十数人の人々がひしめいているように、十畳以上の広さのところもありました。
  5. 稚児 明治後期の段階では、長刀鉾、放下鉾、月鉾の3つの鉾が稚児を出していましたが、月鉾は明治45(1912)年から、放下鉾では昭和4(1929)年から、稚児(生稚児)を廃して稚児人形(木稚児ともいう)に変わりました。
  6. 禿 稚児の廃止とともになくなりました。
  7. 音頭取 鉾と曳き山には、扇子を手にした音頭取が2名つきます。辻まわしの際には4名で行います。

八坂神社の御旅所  松原中ノ町一里塚神饌
八坂神社の御旅所
(明治43(1910)年・四条寺町東入る)
八坂神社のお旅所は、天正19(1591)年、豊臣秀吉の命により、現在の地所(四条寺町東入る)に移転されました。この写真は、明治末期の四条通りの拡幅工事前に撮影されたものです。
  松原中ノ町一里塚神饌
(昭和17(1942)年・下京区松原中之町)
祇園祭山鉾巡行の際、長刀鉾が松原中之町にかかると、松原中之町中一同が出迎え、水たての抹茶で饗応するという儀礼が、昭和31(1956)年の巡行コ−スの変更まで行われていました。
戦時体制下の巡行  占出山町の会所飾り
菊水鉾の車輪製作
(昭和27(1952)年・南区)
  占出山町の会所飾り
(昭和17(1942)年・中京区占出山町)
江戸時代、京都市中では各町ごとに、町家(チョウイエ)と呼ばれる会所を保有していました。町家は、明治以降徐々に姿を消し、現在では祇園祭の山鉾町以外ではほとんどなくなってしまいました。
菊水鉾の仮鉾での巡行菊水鉾の車輪製作
(昭和27(1952)年・下京区松原通)
第二次世界大戦の間、中止されていた山鉾巡行は、昭和22(1947)年に部分的に再開され、その後徐々に復興され、昭和27(1952)年には戦前どおりに復活しました。この年には、どんどん焼けで焼失した菊水鉾も復活し、仮鉾で巡行に参加しました。
  戦時体制下の巡行戦時体制下の巡行
(昭和17(1942)年・四条寺町東入辺)
戦時下の規制を受けて、伝統行事も変質を余儀なくされ、山鉾巡行は、大文字五山の送り火とともに、昭和17(1942)年を最後に中止されます。この年には、写真にあるように「祈皇軍武運長久」と垂れ幕を垂らし巡行する鉾もありました。

写真は、四条烏丸の交差点を東行する鶏鉾。


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