海水浴と臨海学校
日本では古くから、「しおあみ(潮浴)」や「しおとうじ(潮湯治)」などと称して、医療を目的とした海水浴が行われていましたが、欧米の医療思想を受けた海水浴場は、明治14(1881)年に愛知県立病院長後藤新平が愛知県千鳥ケ浜(現愛知県常滑市)に開いたのを最初とします。このような医療や療養ではない肉体鍛練を目的とした海水浴は、日清・日露戦争を契機とした海国思想の高まりのなかで要請されるようになり、海事教育のひとつとして学校教育の中にも取り込まれて、男子中等学校の課外体育授業に採用されることになりました。
京都一中(現洛北高校)では、明治29(1896)年に、伊勢の津において古式泳法である観海流の遊泳術と、京都疎水の武徳会水練場において小堀流踏水術の練習が始められました。当時、軍隊や学校教育の場では、観海流の泳法が盛んに取り入れられたようです。
小学校の課外授業として海水浴が採用されるのは、中等学校よりも遅れ、全国的には大正末から昭和初期にかけてであり、当時は「海浜学校」と呼ばれていました。
京都では、開智小学校が大正10(1921)年8月1日から10日間、伊勢香良州浜で宿泊臨海訓練を行っています。海浜学校は学校単位に、4〜6年の学童を対象として行われ、開智小学校の場合、大正10年当時の参加費は児童一人あたり13円50銭であり、希望者を募ったので、だれもが参加した行事ではなかったようです。
海浜学校は戦時体制が強まる昭和10(1935)年前後に相次いで中止され、戦後の昭和20年代後半に臨海学校として復活、全員参加の小学校行事として現在に至っています。

明治期の海浜学校
明治期の海浜学校(明治43(1910)年・三重県津市贄崎海岸)

  1. 髪が長い 写真中、浴衣を着た女児以外はすべて髪が長いのは、平素髷を結っているから。当時、女児は少女期を迎える頃(数え年13歳頃)になると、それまでのおかっぱをやめて髷を結っていました。水泳中彼女たちが髪をどう始末していたかは不明。
  2. 手拭いを被る 男児はすべて日本手拭いを被って、水泳帽としています。
  3. 腕を組む 男児はほとんどが腕を組んでいます。目線を逸らす者も多く、笑顔で写っている者はいません。
  4. ワンピ−ス 当時の女性水着は、半袖で裾が膝頭ぐらいまでの前ボタンのワンピ−スでありました。素材はモンメリヤス。写真右端の女児と、彼女の一人おいて隣の女児は横縞のワンピ−スを着ていますが、これは当時発売された新しい水着デザイン。
  5. ふんどし 男児はすべてふんどしをつけています。当時小学校の中・低学年の男児は、平常、袴を着けることはなく、着物に前掛けをし、下着にはふんどしではなく腰まきをつけていました。「臨海学舎につくと、まず最初にふんどしのしめ方を教えてもらいまして、それから足のうごかし方を習ったもんどす。」と、臨海学校からふんどしに馴染んだ男児が多かった。当時、ふんどしを着けるということは大人になる表象でもあり、ふんどしを初めて着けることが男児の成人式をも意味しました。
  6. 脚を組む 座っている女児はすべて脚を組んでいます。水着の裾を気にしてのことでしょう。

昭和初期の海浜学校  海浜学校での自習時間
昭和初期の海浜学校
(昭和初期・福井県高浜市)
この頃の海浜学校には、小学校低学年から高学年まで合同で参加していたようです。男児は、海水パンツか、ランニング式のつなぎ水泳着、女児も袖無しのワンピ−ス型水着を着用しています。こうした水着が普及したのは、日本では大正9(1920)年のオリンピックの影響 によるといわれています。
  海浜学校での自習時間
(昭和初期・福井県高浜市)
海浜学校では、水泳だけでなく、地引き網や船遊び、学芸会などのレクリエ−ション的な行事の他に、毎日自習時間が設けられていました。大正期に学校教育の場に定着した鉛筆とノ−トの普及により、「書く」ことによる学習が重視されるようになり、写真のように、児童の自主性に任せた「自習」という時間が設けられるようになったのも、この鉛筆とノ−トの普及によるものといわれています。
海水浴場のシャワー海水浴場のシャワー
(昭和初期・三重県津市)


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