その筆頭とでもいうべき人力車は、明治2(1869)年に東京の日本橋で料理屋をしていた和泉要助によって発明されました。以後全国で爆発的に流行し、京都でも明治35(1902)年には、人力車を曳く人力車夫は6、527人を数えました。 一世を風靡した人力車も、明治27(1894)年に市電が通り、また明治中期から自転車が普及していくにつれて徐々に影を薄めていきます。さらには、自動車の普及により、その傾向は決定的となり、花柳界界隈を除いて姿を消すことになりました。 狭い範囲に人口が集中し、かつ道幅が狭かった京都では、自転車は自家用、営業用ともにまたたく間に普及しました。明治30年代の前半からは国産の自転車も登場し、明治39(1906)年段階の京都の自転車数はすでに1、792台でありました。その25年後の昭和5(1930)年には91、878台となっており、驚くべきことに、総台数は東京の約9倍という多さでした。当然、大阪や名古屋と比べても総数は突出しており、 土地が平坦であることや、生活圏がヒューマンサイズである京都が、いかに自転車に適した自然条件と社会条件を備えていたかがわかります。 ![]() 客をのせる人力車(明治39(1906)4月以前・現円山公園)
映像に見る近代京都の生活文化 HOME PAGE |