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京都の近代数寄屋
桐谷 邦夫
京都の近代数寄屋について語るとき、明治5年(1872)の第一回京都博覧会についてはじめなければなりません。このときに建仁寺正伝院に抹茶席、知恩院三門上に煎茶席が設けられました。このうち建仁寺では椅子に腰掛けての茶、すなわち立礼の茶が行われたのです。これは慶応3年(1867)、パリで行われた万国博覧会の影響なのです。このころヨーロッパでは茶の消費量が多くなり、博覧会でも茶の展示とデモンストレーションが行われていたといいます。一方日本では、文明開化の時代、伝統文化である茶の湯は大きく衰退しはじめました、人々の関心が西洋的なものへと向かい、また茶を支えていた武士や寺院の勢力の衰えも大きな要因です。そして起死回生を願っての策が、博覧会における茶の湯だったのです。もっともその効果がすぐに現れることはなかったようですが、東京をはじめ全国各地の博覧会へも波及しました。江戸時代の茶室は通常、屋敷の奥まった所に位置していましたが、ここで表、つまり晴れの舞台に引っ張り出されたのです。それは新しい数寄者たちの目に留まるところともなりました。このことはのちの彼らの活躍には少なからぬ影響を与えたのです。
ここで茶室と数寄屋、そして数寄者について簡単に触れておきましょう。茶室は言うまでもなく茶の湯を行うための部屋です。そしてその影響を受けた建築が数寄屋です。また数寄者とは芸道に熱心な人をさし、とりとは別に茶の湯に熱心な人のことをいい、多くの茶道具を所持し、場合によっては茶室を収集したり、あるいは普請道楽といって数寄屋建築を次々に建てた人もいました。
さて、京都における近代の数寄者といえば、まず伊集院兼常が挙げられるでしょう。伊集院は薩摩藩士であって、維新後には官僚から会社社長を歴任した人物で、「近代の(小堀)遠州」とも呼ばれています。高瀬川一の舟入に建ち、現在「廣誠院」と呼ばれている屋敷は伊集院の代表作で、明治25年(1892)頃の建築です。さまざまな趣向を凝らした数寄屋建築ですが、ここでは遣水の上に茶室を配した造形に注目したいと思います。壁面がカーブした変形三畳の茶室の下を水が流れ、そのせせらぎは十三畳半の書院座敷の縁先をかすめ、苑池を構成しています。茶室には円窓が設けられ、室内からはその流れを望むことができます。一般に茶室は、景色を眺めるようにつくることは希です。しかし近代には、外を眺めるようになったものも多くみられますが、それは数寄者たちによる自然との一体感の演出なのです。
伊集院はのちに南禅寺近郊にも屋敷をつくります。この周辺には琵琶湖疏水の水を利用した邸宅が数多く建てられました。早い時期のものとして、明治29年(1896)に竣工した山県有朋の「無鄰菴」があります。伊集院の屋敷も同じ頃だと考えられますが、のちに所有者が代わり、明治35年(1902)に「對龍山荘」として市田弥一郎が増築をはじめます。池に張り出した座敷の下に小さな滝が造られるなど、水の流れを建物に組み込んでいます。その後、疏水の水を利用した屋敷づくりは南禅寺周辺に拡がり、「清流亭」や「野村碧雲荘」などの邸宅群が築かれるようになりました。
銀閣寺の参道にある「白沙村荘」は、橋本関雪が大正5年(1916)にこの土地を入手して以降、徐々に整備したものでした。庭には茶室や寄付として使用される四阿が建てられています。茅葺の寄付は池に乗り出した形式で、円窓を変形させた大きな開口部が池に向かっています。やはり縁を池に張りだした広間の茶室へは、池の中に打たれた飛石を伝ってのアプローチが組み立てられています。この広間には二方向に小縁が付き、庭に対して開放的な茶室となってます。小座敷の茶室では古材を用いたり床脇に持仏堂を設けるなど、自由な発想で造られた茶室となっています。
京都は山紫水明の都と呼ばれています。この言葉は頼山陽がつくった言葉だといわれており、山陽が鴨川べりに建てた屋敷にその名をつけています。日本において水や自然と建物との深い関係は、奈良時代にはすでにあったと考えられ、平安時代の寝殿造やそれ以降、連綿として続いてきたものでした。一方、近代のヨーロッパの建築は、人工的な空間を自然から分離したものが主流でした。しかし新しい建築の考え方として、彼の地においても自然との一体感が求められるようになりました。それは昭和になって来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトの桂離宮賛美に代表されます。彼は、飾らぬ意匠への興味と共に、自然との関わりに着目したのでした。数寄屋建築を代表とする日本建築はこの時代、大いに外国人達に注目され、そして新しい建築の参考にされたのです。その意味で近代においての数寄屋は、ヨーロッパに救われ、やがて彼らにご恩返しができた、と言ってしまっては少し大げさでしょうか。