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特集 京都の彫刻・工芸品 -3- 「仏師・清水隆慶のつくった 木造深山正虎坐像-車僧のものがたり-」
山下 絵美
はじめに
美術工芸品で「彫刻」とされる分野のなかで最も数が多いのは仏像になりますが、神像や肖像、仮面などがそれに次ぎます。肖像彫刻については、祖師、高僧、天皇、公卿、武将はじめ、その時代や地域に功績のある人物など多岐にわたり、崇敬や追慕、儀式用など目的もさまざまです。仏像に比べてきまりごとが少ない分、個性もよくあらわれます。
今回は、「頂相」といわれる禅僧の肖像彫刻のなかでも、今年新たに京都市指定文化財に加わった「木造深山正虎坐像」[写真1・2]についてご紹介します。
1.「車僧」とよばれた深山正虎の足跡
深山正虎(生没年不詳)は、鎌倉時代の禅僧です。この名前に聞きなじみがなくとも、「車僧」のことだといえばわかる方もあるかもしれません。この「車僧」の肖像が、京都市右京区太秦海正寺町に所在する「車僧影堂」[写真3]と呼ばれる小さなお堂に江戸時代から安置され、地元の有志からなる保存会により維持・管理がはかれてきました。像は現在、京都国立博物館に寄託されていますが、毎年9月の第一日曜日には、地元で車僧盆会が行われています。
この地にはかつて「海生寺」という寺院がありました。『雍州府志』などの江戸時代の地誌類によれば、「海生寺」は深山正虎が開いたとも、住んでいたともいわれています。正虎が生きていたであろう時代まで遡ることのできる資料は現在のところ見つかっておらず、その足跡はほとんどわかっていませんが、『延宝伝灯録』(延宝6年/1678)によれば、東福寺開山・円爾の法をついだ直翁智侃(寛元3年‐元亨2年/1245-1322)と問答を交わし、後に出家します。巷では生まれも名前も知られておらず、常に破車(壊れた車)を子どもたちに押し引きさせて道を往来することから、「車僧」とも、また七百年前の昔語りをよくすることから、七百歳とも呼ばれていたといいます。亡くなったときには荼毘に付されたものの、火が尽きた頃にはその骨や灰は全てなくなっていたという不思議な逸話も収められています。謡曲「車僧」[写真3]では、愛宕山の天狗・太郎坊との法力くらべを主題としており、古くから奇僧としてのイメージが強い人物であったようです。
2.木造深山正虎像
深山正虎の肖像は、絵画・彫刻のいずれにおいても、この像が知られるのみです。総高(頭頂から衣の裾まで)は61.7cm、等身よりやや小さめの、椅子に趺座する、一般的な姿勢をとる頂相彫刻です。寄木造で、玉眼が入れられています。前後に二材を寄せた体幹部に、別につくられた首から上の頭部が挿し込まれる構造です。お堂では帽子をかぶり、左手に数珠、右手に払子を握る姿で安置されていました。背中を少し丸め、眉を寄せて口をへの字に結んだ、困ったような表情が印象的です。たいへん写実的な作風であることから、没年からまもないであろう南北朝時代の制作がこれまで有力視されてきましたが、近年の調査で、像内に「清水右近隆慶」の銘記が確認されたことにより、江戸時代の仏師・清水隆慶の制作であることが明らかになりました。
3.仏師・清水隆慶
清水隆慶は、江戸時代に京都を拠点に活躍した仏師で、制作年代や作風、位牌、過去帳写などの資料から、四代にわたる活動が推定されています。清水隆慶の作例は、多くは確認されていませんが、総じて像高30センチメートル前後の、表現にすこし硬さが感じられる、小さな像がほとんどです。そのなか深山正虎像は、等身に近い大きさの像を含めた多様な作例をのこす初代隆慶(万治2年-享保17年/1659-1732)に通じる作風がみてとれるうえ、現在のところ、銘記を「右近」とする作例はほかに、初代制作とされる「髑髏」(元禄2年/1689、個人蔵)の箱書きにしか確認されていないことをあわせると、正虎像は初代隆慶の制作であると考えらることができます。
清水隆慶の名は、奈良県生駒市の宝山寺を開いた湛海の造像活動に深く関わったことにより知られており、それら諸像の制作年代には、初代隆慶の活動時期をあてることができます。湛海が図様や彩色を「隆慶」に指図して制作された奈良・元興寺木造不動明王坐像(元禄9年/1696)をはじめ、初代隆慶の関与が推定される湛海作品は、近世を代表する仏像彫刻として評価されています。
また、清水隆慶の銘のある作品のなかで、初代とされる作例では、享保2年(1717)銘の、街ゆく人々をいきいきとあらわした像高6センチほどの小さな群像「百人一衆」[写真4]が知られています。ほか、竹翁坐像(宝永3-7年/1706-10、個人蔵)、初代隆慶半身自刻像(享保11年/1726、個人蔵)など、幅広い題材を、生気に満ちた姿に仕上げており、宝山寺諸仏などの制作で培った確かな技術を基礎とした、柔軟な制作活動をみることができます。
4.清水隆慶の生きた時代
江戸時代のはじめ、諸寺院では戦乱からの復興や整備が進み、仏師たちはそれにともなう仏像や肖像等の修復や新造に従事しました。肖像彫刻においては、栃木・輪王寺の木造天海坐像(康音作、寛永17年/1640、重要文化財)や、京都・長講堂の木造後白河法皇御像(康知作、明暦4年/1658、重要文化財)など、写実味のある肖像彫刻が制作されるなか、禅宗寺院を中心に、祖師・開山等の頂相彫刻が、吉野右京らの仏師のもとで多数制作されています。
正虎像もそうしたなかで制作されたものなのでしょうか。像の仕上がりには一部に形式化が見られるものの、抑揚のある衣文表現や、皺の多く刻まれた顔、頭部に浮き出た血管、肉薄な頬や首元などには、実在の老僧を思わせる、巧みな表現を見ることができます。正虎像の制作時期が、前述「髑髏」制作の元禄2年頃とみた場合、同時期に制作された頂相彫刻を見渡してみても、正虎像の写実表現はたいへんすぐれており、初代隆慶の卓越した技量をうかがうことができます。
5.像内に納入されたもうひとつの頭部
驚くべきことに、像の内部、ちょうど腹部あたりに、正虎像とほとんど同じ大きさの木造の僧形頭部像が納入されています。取り出すことはできないものの、ここまでは過去の調査で知られていましたが、近年の京都国立博物館での調査で撮影されたエックス線CTスキャン画像により、像内に納入された頭部像は、正虎像と構造はよく似ているものの、顔立ちは正虎像にくらべ、たいへん若々しいことがわかりました。例えば近年、建仁寺西来院(京都市東山区)の蘭渓道隆像の内部に、蘭渓道隆とみられる古い頭部が納入されていることが発見されました。似た事例ではありますが、正虎像内の頭部像は古いものではなく、おそらく正虎像と同時につくられたものと思われます。では一体何のために作られ、納入されたのでしょう。正虎像と取り替え可能な首かと考えても取り出すことができず、挿し首の仕様も異なることから、そうとはうなずき難い。だとすれば、銘記に見られる願主「上月宗全」なる人物や、もしかすると制作者である隆慶本人を模した頭部像を納入したのかという大胆な発想も浮かぶものの、関連する資料は見つかっておらず、納入された理由は現在のところわかりません。
おわりに
海生寺の廃絶後も、長らく地元の人々により守り伝えられてきた深山正虎像は、鎌倉彫刻の写実性を踏襲した、近世における肖像彫刻のありようを示す、すぐれた作例として評価することができます。また、清水隆慶の幅広い制作活動、ひいては時代の求めに応じた近世仏師の制作活動を示す資料であるとともに、深山正虎に関する数少ない歴史的資料としても貴重であることから、平成30年3月30日付けで京都市の文化財に指定されました。
ただし、依然わからないことがいくつもあります。鎌倉時代の禅僧の肖像彫刻が、なぜ江戸時代につくられたのか。正虎の顔は、何を手本にしたのか。像内のもうひとつの頭部像は、一体何のために納入され、誰なのか――。変わり者だったに違いない、正虎と隆慶が今に残した謎です。
[おもな参考文献]
・杉山二郎
「江戸彫刻研究法 群小作家系譜を辿る一例 清水隆慶について」
『日本彫刻史研究法』東京美術、平成3年
・淺湫 毅
「新出の清水隆慶作品 -近世彫刻の諸相4-」
『学叢』第34号、京都国立博物館、平成24年