京都の文化遺産を守り継ぐために 「祇園祭山鉾町に住まいして ~秦家と暮らしの文化~」

ミセ

ミセ

秦家住宅は幕末の動乱期、元治元年(1864)に起きた戦乱による大火(「どんどん焼け」や「鉄砲焼け」と称された)で消失後、明治2年(1869)に再建された「表屋造り」と呼ばれる京町家。その外観は間口5間、むしこ窓を開いた大屋根の表庇に「奇應丸」の屋根看板を掲げて、江戸時代後期の伝統的商家のおもむきを今に伝えています。「表屋造り」とは、通りに面して建つ表棟から後部へ、玄関棟、住居棟、土蔵と続き、それらの建物を坪庭と座敷庭が繋げる形式を指します。かつては家族と複数の働き手が寝食をともにし、家業を支えてきた大店タイプの職住一致の住居です。
通りに面して建つ表棟は、1階に平格子、出格子。軒先は一文字瓦を葺く典型的な京町家の表構え。カドと呼ぶ出入口には夜になると厳重な戸締りをする大戸のほかに、ガラス戸、格子戸と3つの戸を設けています。カドを入ると右手に広い店の間が広がり、左手には板戸をはめた押入れがつくられています。店の間は手前のミセと奥側コシノマの2部屋にわけ、手前のミセには「奇應丸」の金文字が浮かぶ漆塗りの大きな置き看板が畳の上に据えられ、黒光りした大和天井を見上げると、玄関棟との境の鴨居に取り付けた神棚には商売の神様である大黒さんも祀られています。

通り庭

通り庭

秦家は創業元禄13年(1700)、初代松屋與兵衛から12代、薬種業を営んできました。小児薬「奇應丸」は、虚弱体質、ひきつけ、嘔乳、夜泣き等に効があるとされる製剤で、麝香ジャコウ牛黄ゴオウ龍脳リュウノウ白朮ジャクジュツ人参ニンジン沈香ジンコウなどの生薬を調合する製法を代々一子相伝として受け継いできました。カドを閉じるガラス戸を開けて、通り庭のはじまる土間、店ニワに立つと、原料の放つ強い香りが鼻腔を突き抜けるように匂って、薬屋であることを知らしめたもの。薬を求め訪ねてくる客、商談の用向きで飛び込んでくる人、電話の音。店の間は活気に満ちた空間でした。

坪庭

坪庭

店ニワの奥へ進むと、そこは玄関棟の前に設けられた土間、玄関庭です。平屋建ての玄関棟は、三畳間と家人が茶の間と呼んでいる四畳半の客間からなっており、手前三畳間は来訪者を出迎えるところ。年を通して季節の花をあしらうことも欠かしません。また奥の茶の間は、釣り床を備えて格式を整えています。玄関棟の奥には、坪庭と呼ばれている小さな庭があります。坪庭は、大小の石組み、石灯籠、蹲、そして棕櫚竹を取り合わせたシンプルなデザイン。通風、採光のために開けられた外部空間ですが、玄関ニワに佇んで最初に視界に飛び込んでくる棕櫚竹の爽やかなグリーンの色彩とやわらかい自然光は、客が家人の出迎えを待つひとときを取り持っているようです。ここまでは対外的な応対をするエリア。我が住まいであっても、生活感を匂わせることのないよう気配りし、公の空間であることを意識して暮しています。玄関庭に架かる内暖簾は、その奥に繋がっている日常の生活空間との結界であることを黙って指し示しているのです。
内暖簾の後ろに建つ中戸という木戸を潜ると走りニワに出ます。私的空間である走りニワは、親しい知人、出入りの業者、職人、家族以外が立ち入ることはありません。住居棟に添ってのびるこの土間は、この家の食を司る炊事場でハシリモトとも呼ばれます。煮炊きの湯気がのぼる先には、墨字で「火廼要愼」と書いた愛宕神社の火伏せのお札を貼り、お札のそばに取り付けた神棚には三宝さんという7体の竃の神様を祀っています。神棚には、荒神松という、榊と松を取り合わせた青々しい生花を常にそなえる習慣は、京都の家々に今も生きた慣わしとして大切にされています。
走りニワ沿いには、カミダイドコ、ダイドコ、ツギノマと3室が並びます。カミダイドコは、2階への階段が設けられるとともに、氏神さんを祀る神棚が据えられ、正月には歳徳神を祀る恵方棚を天井から吊り下げます。その後方に続くダイドコ、ツギノマは、住まい手の食卓や居間のための部屋で、両部屋の間にはひときわ太い大黒柱が建っています。
いっぽう、玄関棟から住居棟へのびる中廊下を進むとオクと呼ぶ座敷があります。八畳の座敷は、手前に六畳の中の間を控えの間とし、京唐紙の襖で仕切ります。仏間も兼ねた当家の座敷は、仏壇、違い棚、床の間が側面に並ぶ京都の家によく見られる構成。座敷は家の中でもっとも厳粛なところで、普段家族がこの部屋を使うことはなく、お正月、節句、お祭り、お盆などの年中歳時にあわせて決められた室礼に整えて、ときどきの節目を迎えます。

夏座敷

夏座敷

座敷の奥には縁を隔てて座敷庭が広がります。深い庇の下、ほの暗い室内からスポットライトのように鮮やかに木々の緑が浮かび上がる光景は美しいもので、そこはまさに陰影礼賛の世界。庭が京町家の魅力を引き上げる重要な要素であることを物語っています。手前に配された簡素な坪庭とは対照的に、座敷庭の表情は季節感にあふれています。そしてこの庭で繰り広げられているさまざまな事象は、家人の毎日の生活と深いかかわりをもっています。
何気なく通りすがりに目にする景色を取り立てて意識することはありませんが、庭における規則的な自然のリズムは、季節単位、また1日の時間単位で生活のリズムと同時に進行しており、それは家人の体内時計となって身体に刻み込まれています。
庭木は決まった時期に芽をだし、花、そして実をつけます。酷暑のクマゼミの輪唱、送り火が過ぎれば鳴くコオロギ。自然の正確であるはずの時計の針が、わずかに遅れても、また早まっても落ち着かないもの。庭は、座敷の借景としてだけではなく、家人にとってなくてはならない存在なのです。
縁はさらに庭に沿って洗面所、風呂など水回りのおかれるところへのび、庭の反対側には渡り廊下が庭を取り囲むように離れ、土蔵に向かって付いています。蔵の縁と呼ぶ土蔵前の縁は、昼間でもそれほど頻繁に行き来することのない静かなところ。人の気配のないことをよく知った小動物(猫・イタチ・野鳥など)の足跡が点々と残っていることもよくあるのですが、都心の真ん中でそのような出来事が起こるのも、奥行き30メートルあるいはそれ以上の縦に長い敷地に棟を連ねる京町家が、市中の山居と喩えられる所以でしょうか。

宵宮

宵宮

当家の建つところ、下京区太子山町は16世紀には今の地にありました。現在の「下京区」は、近世の「下京」と同じ範囲ではありませんが、家の前を走る表通りは、市中を南北に貫く最長の油小路通り。平安京の油小路にあたるこの通りは、現代も産業の主要路としての役割を担っています。周辺は、白生地、染め抜き、手書き友禅など、和装に関わる仕事を業とする家々が集まる職工の街。ここに生きる人々の日常のなかにもやはり、歴史、文化が降り積もった土壌の上、都市住民としての気質が脈々と息づいています。
町名にあるとおり、わが町は八坂神社の祭礼、祇園祭に聖徳太子を本尊とする「太子山」を出すお町内で、山鉾町のなかではいちばん西の端に位置しています。入梅を迎えるころともなれば「せわしい時期になってきましたな。」「また、お世話さんなことで。」と、挨拶代わりの言葉を交わすのは、今も昔もかわりません。
さて、家の中で住まいの衣替えを行うのは、6月半ばを過ぎるころでしょうか。襖、障子を取り外して、夏の室礼に調えてほどなくやってくるお祭りにそなえます。それはちょうど庭の梔子が雨露に濡れながら小さな蕾をもたげてくる時期と重なるよう。薄闇のなかに浮かび上って咲く梔子の花は、二階囃子の音色に誘われて開花の時期を迎えます。
鉾の辻に流れる祇園囃子の音色を、山鉾町に住まうものは「二階囃子」と呼んで心待ちにします。そして祭りの日に向けて地域の結束力も徐々に盛りあがりをみせていくのです。前祭りの山町である太子山は、7月14日には表通りに山が建ちます。車の通行も遮断され、家々の軒に提灯があがって、お町内は祭り一色。お町内ではそれぞれに役割を分担し、1年ぶりの共同作業に一丸となって汗を流します。
祭りの舞台へと転換していくお町内にあって、太子山の会所飾りの場になる秦家の表棟は、本尊の聖徳太子が祀られ、前掛け、胴掛け、見送り、角金物などの懸想品が飾り付けられて雰囲気は一変します。それにあわせて、先に夏支度を終えた玄関の間、茶の間、座敷にも赤穂段通、緋毛氈、屏風、生け花などを設え、家全体が「ハレの空間」に模様替えすると、表通りから住まいの奥までが祭りの風情を醸しだして、非日常の空間へと様変わり。このひとときこそ、山鉾町に住まう贅沢なのかもしれません。

宵宮

宵宮

京都は長い歴史のなかで、人々が円滑な共同生活をおこなうための仕組みをつくりあげてきました。お祭りもまた、この仕組みのなかに組み込まれ、継承されてきたものです。町の運営に際しての取り決めごとを明確にするためにつくられた「町のしきたり」という社会のシステムに対して、ハード面のシステムとして生まれたのが京町家だったといいます。
京町家は一軒の住宅として完結された建物ですが、その集合体である地域に良好な環境を提供するための仕組みをつくりあげてきました。外観を公の一部と考える精神性、格子は繊細なデザインに魅せながら構えを守ります。公私の別をくっきりと形に表し、使い分ける住まい方。また家のなかには、庭を介して内と外の気配をゆるやかに繋げて、光や風、季節感を取り込む工夫は、住まい手に豊かな暮らしをもたらします。
積み重ねられてきた暮らしは、じっくりと時を経て独自の生活文化を形づくります。家のなかの各々の空間の役割を明確にさせて生まれてきた暮らしの型。これを「しきたり」「決まりごと」とすると、堅苦しく思えますが、これから私たち日本人が生きてゆく術を探るうえでの道しるべとして値するものではないかとさえ思います。住まいを公開して学んだことは、過去の遺産として線引きし、鑑賞にとどまるのではなく、受け継がれてきた文化を「今」の時間軸のなかに上手く溶け込ませ、さらに使い込んでいくための知恵と工夫の必要性です。そしてそれらは、丁寧に繰り返す、何気ない毎日の生活なかに潜んでいるのです。
近年、当家を訪ねて来られる20代後半から40代の女性は、単に古い建造物に入ることを目的とするのではなく、空間から匂いたつ文化の香り(生活観や精神性)に関心を持ち、心の拠りどころとしてこれを求める傾向にあるように感じます。便利で豊かな暮らしを求めてきた社会ですが、これまでの価値観は転換期にさしかかっているのかもしれません。しかし現代は、彼女たちにその具体的なノウハウを伝承できる環境を持ち合わせていないという実情を抱えています。
現代から未来へ心の糧が育める家を住み継ぐためにも、先人達の知恵から継承できるものを選び取る工夫が必要です。「文化は家付きである」という言葉があると聞きます。文化は代々受け継がれる住まいを舞台に育ち、そこに凝縮、蓄積されるとも。日本人の求める豊かさの価値観が「量」から「質」の時代へ関心が高まる今、形体的な京町家の保存のみを目指すのではなく、そのなかで今に生きた暮らしの醍醐味を味わってもらえないか。公開を決断してから20年、秦家の模索は続いています。

写真/筆者撮影

特集 京都の初期障壁画 1「長谷川等伯の障壁画」

今回から4回にわたって京都の寺院に伝わる障壁画を御紹介したい。いずれも桃山時代から江戸時代初期にかけてのものを予定している。近年、デジタル技術が発達し、京都の寺院にある著名な障壁画が次々とデジタル複製のものと入れ替えられつつある。文化財の保存上致し方のないこととは思うのであるが、かつての状況を知るものとしては、現場で本物を見ることができなくなることにはやはり一抹の淋しさを禁じ得ない。複製化された場所では、せめて室内に入っての体感的な鑑賞ができるようになればと願っている。今回から紹介する障壁画のなかにはデジタル複製が行われたところはないが、通常非公開のところや博物館等に寄託されているものも含まれる点はご了解いただきたい。初回は桃山時代の巨匠の一人、長谷川等伯の障壁画2点を取り上げる。

智積院障壁画

「楓図」

「楓図」 智積院所蔵  国宝・紙本金地著色・壁貼付・4面 写真/智積院 所蔵

東山七条の智積院の宝物館には、桃山時代を代表する国宝の金碧障壁画が収蔵展示されている。実はこうした名品の襖絵を間近にガラス越しでなく鑑賞できる寺院は京都でも数少ないのが現状である。また、大坂城や聚楽第などの御殿が伝存しない現在、豊臣秀吉・淀君・徳川家康らが確実に目にした障壁画を、400年の歳月を超えて鑑賞できるところはここしかないといって良いだろう。
有名な楓図や桜図を始め、松に秋草図、松に黄蜀葵図、松に立葵図、雪松に梅図などが一室に展開する空間は壮観の一語に尽きる。巨大な樹木と可憐な四季の草花が織り成す優美な世界は、桃山時代盛期ならではのものである。
これらの障壁画は、もとは天正19年(1591)に3歳で他界した豊臣秀吉の長子、鶴松の菩提寺として秀吉が建立した祥雲寺客殿のもので、三回忌法要が営まれた文禄2年(1593)8月5日には完成していたと考えられる。作者は、一代で画壇の頂点に上り詰めた長谷川等伯(1539~1610)とその嫡子久蔵ら、長谷川派一門である。当初100面以上あったと思われる本障壁画は、その後、2度の火災や盗難に遭ってその大半を失ったが、幸い主要画面であった20数面が現在も伝わっている。祥雲寺は元和元年(1615)にその伽藍が徳川家康から智積院に与えられているが、その際に家康が祥雲寺について、都一番の寺ということは日本一の寺であると称したとも伝えられる。なお、平成4年(1992)に、障壁画が飾られていた客殿の遺構が境内の発掘調査で検出され、当時としては最大規模の客殿であったことが確認されている。
ところで長谷川等伯の作風上、ここで注目したいのは巨大な樹木と可憐な草花というモチーフの取り合わせである。生命力豊かな巨大な樹木というと、この時代まず狩野永徳が想起される。結論からいえば等伯は永徳の作風を取り入れたのである。そのことは豊臣秀吉が建てた母大政所の菩提寺、大徳寺内の天瑞寺(廃絶)客殿の障壁画からうかがえる。同障壁画は明治初期の廃仏毀釈の際に失われ現存しないが、江戸時代の画家がその図様を写した小型の写本が2種ほど紹介されている。そこには巨大な松樹が描かれているのである。狩野派と敵対していた等伯が敢えて永徳の図様を採用したということは、つまり等伯は祥雲寺の障壁画制作にあたって、秀吉の好みに合わせた図様として巨樹表現を採用したということである。しかしながら等伯は単純に永徳画の模倣をしたのではなかった。というのは、等伯が祥雲寺に描いた作品には、単に巨樹が描かれるだけではなく、そこに巨樹を取り巻くように華やかな草花が添えられているからである。豪壮さから優美さへ、という桃山時代前期から桃山時代後期へと変化する美意識の転換をこの祥雲寺の等伯画が如実に物語っているのである。
それでは等伯は何故、草花を添えたのであろうか。生命力のある巨樹という永遠の存在と、可憐な草花という冬が来れば枯れ行く儚い存在。等伯の中には二者の対比が構想されていたのではないかと考えられる。その発想の源には、天下人秀吉と幼くして亡くなった鶴松、という存在が介在しているのかも知れない。智積院に現在伝わる障壁画のなかで、この対比が最も強く感じられるのが秋草を描いた名作「楓図」である。
等伯の作例を見ていくと、同様な感覚が発現された作例が他にも認められる。1点は彼のもう一つの代表作である国宝「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)である。制作時期には諸説あるが、祥雲寺障壁画制作よりは遅れるという点では諸説一致をみている。6曲1双の屏風に描かれているのは四つの群れに分かれた松林と雪を頂いた遠山のみである。そのほかは靄にしっとりと包まれた何も描かれない空間が広がる。松樹は古来、冬でも青々とした葉を茂らせることから不老長寿の象徴とされている。本図においても画面右上に描かれた雪山から冬の情景であることが指摘できる。そして、松樹を取り巻く靄は一瞬の光景であり、次の瞬間には形姿を変え、あるいは消え去る運命にある。この作品の主題もやはり、不変のものと変化するもの、換言すれば永遠性と儚さ、にあるのではないかと考えられる。また、等伯は祥雲寺障壁画制作の直後に息子久蔵を亡くしている。そうした喪失感が本図制作の動機と指摘することも可能であろう。
一体にこの時代は、現在のファインアートの作家のように、画家が自由に作品制作を行える時代ではない。特に一品制作である障壁画は必ず、権力者などのクライアントの意向を斟酌しながら制作が行われる。しかし、「松林図屏風」は障壁画の下絵の一部を、もとの図様の連続性を無視して再構成し屏風に仕立てたものと考えられている。本図に満月を付け足した同構図の「月夜松林図屏風」という近世初期の作品が近年紹介されているが、そうすると「松林図屏風」が現在の姿に整えられたのは等伯存命期である可能性が高くなる。等伯が自分自身の構想に従って、松林図を屏風として現状に仕立てたものと想定できるのである。

禅林寺波涛図障壁画

「波涛図」

「波涛図」 禅林寺所蔵  重要文化財・紙本墨画・全12幅のうち 写真/禅林寺 所蔵

等伯が同様な主題に基づいて制作したと考えられる作品をもう一つ取り上げたい。禅林寺は永観堂の名で親しまれる左京区の寺院である。その大方丈の中の間を飾っていた障壁画が等伯による「波涛図」である。現在は掛幅に改装され普段は拝見できないが、特別参観などの際に大方丈のもとの場所に掛けて公開されることがある。制作時期はやはり祥雲寺障壁画制作より遅れ、およそ等伯50歳代末ころが想定されている。寺伝では狩野元信筆と伝えるが、現在では結晶体を思わせるその特徴的な鋭利な岩皴表現から等伯真筆とみなされている。襖12面にわたって画面に描かれるのは、等伯の完成された真体表現の岩と流麗な線描からなる波涛、そして水墨画としては斬新な金箔による雲霞のみである。
この作品では「松林図屏風」の松が岩に、靄が波に取って代わっている。そしてそれを一種デザイン化、様式化された表現としているのである。繰り返しになるが、永遠不変の岩と、一定の形を持たず常に変化していく波、という主題なのである。ただし、智積院の「楓図」の秋草のように、また「松林図屏風」の靄のように、波は枯れ消えていく存在ではなく、波もまた永遠のなかで形を変化させるものとなっている点は注目される。等伯が話したことを本法寺の日通上人が書き留めた『等伯画説』の中に、等伯が、岩より水を描くことの方が難しく重要であると述べたくだりや、等伯の画系上の師である等春を庇護した画の名手細川成之の「波の絵」1双屏風の写しを等伯が所持していたことなどが記されており、等伯が波の描写に強い関心を抱いていた様子がうかがえる点は興味深い。
なお、波と岩のみという「波涛図」のモチーフがジャンルこそ違え、著名な竜安寺方丈庭園と類似している点もまた興味が引かれる。同庭園は漠然と室町時代の作庭と考えられているが、実際は近世初期まで時期が遅れるとの見解も強い。そうであれば、等伯と禅の関係にも注意が払われる必要がありそうである。行雲流水を絵に描けばまさに「松林図」と「波涛図」そのものといえる。

長谷川等伯は北陸で活躍した20歳代から上洛後の70歳代まで、ほぼ間断なく作品の残る、同時代では稀有な画家である。一般的に、近世初期以前の画家の心象をうかがうことは作品や資料の不足から難しく、美術史研究のうえにおいても慎重にならざるを得ない。しかし等伯の場合は作品、資料ともに恵まれた状況にあり、今回取り上げた3作品に共通する主題から等伯の心象風景を考察することも決して無駄ではないように思われる。秀吉と鶴松、等伯自身と久蔵という、現実のなかでの喪失感に始まり、それを岩と波という、双方とも永遠性のある存在に置き換えたところに長谷川等伯という時代を代表する一人の作家の確かな歩みを見る思いがするのである。

京都の文化遺産を守り継ぐために「伝承 -悠久の歴史-」

京都御所 建礼門

京都御所 建礼門

山紫水明の地京都、四方を山に囲まれ、かも川のせせらぎは心を和ませる。そこかしこに、文化の息吹が感じ取れる。そんな古都、京都を私はこよなく愛する。とりわけ市内のほぼ中心に位置する京都御苑、京都御所には格別の想いがある。永く日本民族の間に培われた歴史ある伝統が、今日まで脈々と息づいている。美術、工芸、絵画、建築、庭園等の造形的文化遺産が、そのままの姿で保存されている。芝生と松の緑が色濃く、敷き詰められた白砂、築地に沿った御溝水は、清涼な流れをなしている。檜皮葺の門、建造物とのコントラストは、実に高貴な気品に満ちた美しさである。幾度の戦乱、大火、自然災害を経ながらも、今日なおこの静謐な空間を保っている。
私は、宮内庁に40年余り奉職したが、その内の数年を御苑内の京都事務所に勤務した経験を持つ。大半は皇居や東宮御所で側近業務についていた。昭和から平成へ御代の移るさなか、様々な儀式、行事を経験する事ができた。これらも永い歴史を持つ。書陵部に保管された莫大な資料を前に先人の努力に敬服しつつ新たに歴史を重ねていく。国の内外に即位を宣明される即位礼正殿の儀は、高御座、御帳台、装束、幡及び威儀の物等古式のままに挙行された。高御座、御帳台は、京都御所紫宸殿から皇居正殿松の間に搬入され、又、多くの衣紋方が京都より出向し、皇族方はじめ数多くの出役者の衣紋に携わった。
私が、現在席を置く一般財団法人伝統文化保存協会は、京都御所を起点とした有職故実の調査研究機関として、昭和32年財団法人有職文化協会として発足、昭和61年改称し現在に至っている。
当協会の創設者であり前理事長でもある石川 忠氏(1908~2009)は昭和15年から50年迄およそ35年を、宮内庁に奉職した人物である。昭和20年8月、天皇陛下の戦争終結を告げる録音盤を、阻止しようと宮内庁庁舎へ侵入して来た一部の近衛兵から、身を呈して護り、又戦後、京都御苑を進駐軍の接収から、松一本切らせまいと護り抜いた信念の人である。その後、昭和27年宮内庁京都事務所所長として赴任し、桂離宮の解体修理、修学院離宮の景観保持等、京都の文化の発展に寄与された。戦後の混乱期に於いて、京都を、日本を護らんがための偉業をなした人である。それ故にそのままの姿で現存する御苑に佇み、私は深い感慨をおぼえる。昭和50年退官後、当協会を設立し、その意志をさらに浸透させたのである。
当協会は、当初より衣紋道、雅楽、蹴鞠等の宮廷文化の保存継承を奨励し、各分野の発展に、協力を惜しまない。又御所、離宮の建造物、庭園等に関する刊行物を発行して、参観者のみならず多くの称賛を得ている。京都が誇る宮廷文化を広く理解して頂くために、各分野の講師を招き定期的に講演会を催し、好評を得ている事も大きな励みになっている。禁裏と呼ばれた当時の文化を現在に伝承する責務を感じているものである。昨年、私は伝承の大切さを、意義をしみじみと実感する時を持った。世界遺産賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)の式年遷宮に参列を許された。勅使参向のもと厳かに執り行われたこの儀式は一千二百年の悠久の歴史を持つと言う。

葵祭「路頭の儀」行列

葵祭「路頭の儀」行列
京都御所を出発する牛車(上)と斎王代列(下)

二十一年毎の社殿の造替、修補によりその技術は絶えることなく、綿々と受け継がれて行く。その前年執り行われた伊勢神宮の遷宮をはじめとして、この大いなる伝承は神々のお力を頂く日本に新たなる活力を産み出すのである。上賀茂、下鴨両神社では毎年五月、葵祭が挙行される。勅使を先頭に京都御所を出発する優雅な行列は、青葉に映え都大路を彩る。永い歴史を持つこの行列も戦禍等により度々中断を余儀なくされた。近年では昭和28年、戦後8年を経て12年ぶりに再開され、その喜びを当日の新聞は大きく報道している。当時、宮内庁京都事務所勤務の私は、内蔵寮史生と言う大役を仰せつかり、垂纓の冠に縹の袍を身に纏い鞍上の人となって、京都御所を出発した経験を持つ。冠に付けた双葉葵、葵桂が五月の風に揺れ優しい香りを漂わせていた記憶が残っている。昭和31年には斎王代列も加わり、より華やかなものとなった。500名を越す出役者の装束を始め牛車、御輿、花傘に至るまで時代考証に忠実に調達修補がなされている。御苑から都大路、鴨の河原、下鴨神社、上賀茂神社へと、その行列はまさに平安絵巻である。
伝承について述べるにあたり、特筆したいものに、正倉院御物がある。表題とは、かけ離れ甚だ恐縮ではあるが、こちらも品格ある美しい宝物に満ち溢れている。1200年余を経た宝物が、現在なお極めて良好な状態で保存されている。木造の宝庫に納められ、勅封倉であるが故にみだりに開封されない事等、多くの要因があってその材質、技法、形状、意匠、文様を現在に伝えている。修復、復元に於ける緻密な作業には敬意をはらわずにはいられない。正倉院裂の復元には、日本古来の小石丸種の絹が最適であることから皇后陛下は皇居内紅葉山御養蚕所で育てられている小石丸種を増産され、下賜されていると聞く。
伝承とは、心ある人の想いが結集してなされていくものである。このようにして文化遺産は護り継がれていく。幾多の先人の努力に敬意を表し、次世代へ確かなものとして託したい。

特集 京都の庭園文化 4

二条城二之丸庭園

二条城二之丸庭園

日本庭園に限らず、庭園は、おおまかにいえば、石と土、水と植物から作られています。今では地球の反対側から植物を取り寄せたり、何十トンとある大石をクレーンで吊り上げて据えることもできますが、運搬手段が限られていた江戸時代までは、庭に必要な材料は近在から集めるのが基本でした。
逆に言えば、遠方の材料を集められるということは、その人が政治的・経済的に大きな力を持っていたということになります。庭に貴重な珍しい材料を使ったということは、他の庭には無い独特の景が生まれるだけではなく、そこに住まう人の権力を如実に物語るものでもあったのです。
その結果、珍しい石を権力の象徴として、自分の邸宅や身近な寺院などに据えるといったことも行われます。醍醐寺三宝院庭園にある藤戸石ふじといしはその好例ですが、藤戸石ほどでなくとも、近在の石には無い色合いや大きさ、質感を持った石は、他の石より映えて人の視線をひきつけるため、庭石には格好の材料となりました。
これに対して、樹木は石ほど遠方から持ち込むということはなかったようです。他の材料と違い、生かしたまま運ばなければならなかったこと、持って来て植えても必ず根付くとは限らないといったことが障害になっていたと思われます。慈照寺じしょうじ(銀閣寺)を作った足利義政あしかがよしまさは、こうした問題を解決するため、権力に物を言わせ、手っ取り早く京都や奈良の寺社や邸宅の庭園から樹木や石を徴発するという挙に出ます。もともと庭園に植えられていたわけですから、姿形も整っており、中には珍しい樹木や石もあったでしょうから名案といえば名案ですが、さすがにこれはやり過ぎでしょう。

二条城二之丸庭園のソテツ

二条城二之丸庭園のソテツ

こうした通例に反して、遠方から持ち込まれて、京都の庭園でもまま見かける樹木の一つにソテツが挙げられます。ソテツは鹿児島県を自生地北限とした南方系の樹木で、室町時代の長享2年(1488)の記録に「ソテツ」とかなで書かれているのが初出とされています。長禄4年(=寛正元年)(1460)の「蘇木そぼく」をソテツの初見としている研究もありますが、「蘇木」とは、東南アジア原産で染料や漢方薬として平安時代から利用されていた「蘇芳」(スオウ)のことと思われます。
ただ、ソテツもスオウも南方の産物であるために、運んで来るには船と安全な航路の確保が欠かせません。もともと日本では、こうした南方の産物は中国を経由して輸入していたのですが、室町時代、中国を治めていた明は、時を経るに従って鎖国的な政策を採るようになり、東南アジア諸国との交易の窓口を朝貢国ちょうこうこくであった琉球が務めることとなりました。その結果、交易ルートがそれまでの神戸や大阪から瀬戸内海、博多、中国といった経路から、瀬戸内海(あるいは四国南岸)、九州東部、琉球という経路に変わって行くこととなりました。
この新ルートの中継地となったのが島津氏の治めていた薩摩です。15世紀の中頃には、ソテツの自生地である東南アジア・沖縄・鹿児島と、都である京都が結ばれ、南蛮渡来の品々と共に、ソテツも京都にもたらされたと考えると、庭木などの庭園の素材の流通も政治・経済状況の変化と無関係にはいられないことがわかります。
こうして室町時代に輸入されたソテツは、普通の樹木とは全く異なる樹形が異国情緒を醸し出していたためか、根強い人気を保ち、安土桃山時代、江戸時代の庭園にしばしば用いられるようになりました。豊臣秀吉の聚楽第じゅらくだいにも植えられていましたし、京都では、西本願寺の大書院庭園(虎渓こけいにわ)や桂離宮、仙洞御所せんとうごしょにあるものが有名です。裕福な商家に植えられることもあったようで、歌川うたがわ(安藤)広重ひろしげの有名な『東海道五十三次』を見ると、赤坂の宿屋の中庭にソテツが描かれています。
このように、中国の政治状況の変化によって京都にもたらされたと考えられるソテツですが、封建社会から近代社会へという、日本の政治の大きな変化を象徴する大政奉還の場となった二条城の二之丸庭園にも植えられています。今回は二条城二之丸庭園をソテツにまつわる様々な事柄とともにご紹介します。
二条城は、慶長8年(1603)に徳川家康が将軍任官拝賀など、朝廷に対しての儀式を行うための拠点として造営され、その後も拡張・整備が行われ、寛永年間(1624~1644)に完成しました。二之丸には造営当初から庭園が作られていましたが、残されている古図を見ると、現在の庭園とはかなり状況が異なっているため、古い庭園を改修したのか、実質的に新しく庭園を作り直したのかはよくわかっていません。
いずれにしても、寛永年間の造営で奉行の一人として、庭園などの作事に携わったのが作庭家・茶人として有名な小堀遠州です。二之丸御殿の建物に面した池には、大きな石橋が架けられ、細長い青色の立石が据えられ、松などとともにソテツも植えられています。
寛永年間の造営では、池の南側に後水尾天皇を迎える行幸御殿が作られました。行幸の後に撤去されたため、現在は礎石が残るだけですが、池に突き出すように亭(ちん)が建てられて庭園を一望できるようになっており、庭園から一歩離れる形で眺めることになる二之丸の御殿からとはまた違った雰囲気が楽しめたものと思われます。
庭園を見てまず気付くのが、池岸に縦に据えられている多くの青い石です。俗に青石あおいしと呼ばれますが、正確には結晶片岩けっしょうへんがんといわれる石で、紀伊半島や四国で多く産出する石です。雨が降って濡れると一段と鮮やかな色合いになるため、多くの庭園で使われていますが、ここまでの数を据えているところはそうはありません。単に景物として美しいというだけでなく、これだけの石を集められるという徳川幕府の力を示していることが窺えます。
もう一つ、こうした徳川幕府の威を示しているのがソテツです。資料によると、寛永年間当初には60本あまりのソテツが植えられていたとあるので、庭園には青石とソテツが林立していたようです。本数の多さから、ソテツのほとんどは自生地の琉球か薩摩から運んで来たものと考えられますが、これはすなわち、関ヶ原で西軍に属していた薩摩島津氏も徳川家の威に伏している、つまり徳川幕府が日本全土を掌握していることを象徴しています。
加えて、二之丸御殿の建物からは庭園の背後に天守台が見えていました。二条城の天守台は、たとえば大阪城の天守閣のような大きな建物ではありませんでしたが、逆に庭園の背後遠くに天守がそびえるように見え、城の敷地がより広大に感じられたのではないかと思われます。ソテツのことも考えると、昔と今とでは庭を見た時の印象はだいぶ違い、かつては天守台を背景に、異国情緒の溢れる庭園であったと思われます。
ご存知のように、二条城は、後水尾天皇の行幸以後、幕末になるまで使われることがなく、人間に例えるならごく穏やかに過ごしていたわけですが、二之丸庭園に植えられたソテツ達にはいくつもの試練が待ち構えていました。
承応2年(1653)、京都御所が炎上し、急ピッチで再建が進められていましたが、小御所の庭に植えられていたソテツが火事で焼けてしまったため、代わりのソテツが必要となりました。しかし、入手が困難なゆえ、二条城のソテツを移植することとなり、15本が京都御所に移ることとなりました。
その後も京都の底冷えに耐えられなかったのか、徐々に本数を減らしていたようで、80年ほど後の享保15年(1730)には15本になってしまいますが、貴重な樹木ということで15本それぞれの詳細な図面が残されています。

枯池となっていた二条城二之丸庭園

枯池となっていた二条城二之丸庭園(『鳳闕』(大正13年・1924)より)

そして、明治維新を迎えた二条城は、京都府庁、陸軍省を所管を変えて後、宮内省所管の離宮(二条離宮)となりますが、水の供給が途絶えたため、二之丸庭園の池は枯池として再整備されます。この時期の写真にもソテツが写っており、幾多の困難を乗り越えて、300年近い樹齢を迎えていたものと想像されます。
その後、昭和になって再び池に水が満たされ、二条城が宮内省から京都市に下賜されて広く一般に公開されるようになり、多くの人々が訪れるようになった現在もソテツは健在です。庭は文化財として昔の姿を保存しなければならないものであると同時に、時の流れに従って移ろいゆく存在でもあります。二条城のソテツを見て、かつての姿を思い起こしながら、今の庭の姿を楽しんでみてはいかがでしょうか。

京都の文化遺産を守り継ぐために 「日野薬師 法界寺の歴史と文化財の維持保存」

日野と法界寺

薬師堂

薬師堂 写真/法界寺所蔵

京都市の東南の端にある日野ひのの地が歴史として現れるのは、延暦15年(796)、日野において桓武天皇が狩猟を行われたことが「日本後記こうき」に書かれています。その後も何度か記載されており、日野が遊猟に適した地であったようです。
日野の地名については、伝説としてこの地が奈良の春日野かすがのの地の地形に大変よく似ているところから「春日野」と書かれた立札を立てたところ、どこからともなく鹿が現れ、春の字をなめて消してしまった。これは春日の神慮であると思い、春を除いて日野となったと言われています。
法界寺は、藤原氏の北家ほっけにあたる藤原真夏ふじわらのまなつがここ日野に領地を賜わり、その後弘仁13年(822)に比叡山延暦寺に戒壇の建立が認められ、その勅使として日野家宗いえむねが比叡山に登ってその旨を伝えると当時の座主であった慈覚大師円仁じかくだいしえんにんが大変喜ばれて、返礼として伝教大師でんきょうだいし最澄さいちょうが自ら彫られたという小像の薬師如来像などをもらって帰りお祀りしていました。その後、永承6年(1051)に日野資業すけなりが、その最澄自刻の薬師如来を胎内に収めた薬師如来を作り、薬師堂を建て日野家の菩提寺としたのが始まりと言われています。当初は、五大堂、観音堂などたくさんの堂宇が建てられましたが、現在は本堂の薬師堂と阿弥陀堂を残すのみとなっています。
日野家といえば鎌倉時代に浄土真宗を開かれた親鸞聖人しんらんしょうにんが承安3年(1173)に日野有範ありのりを父として、吉光女きっこうにょを母としてこの法界寺で誕生され、9歳の時に青蓮院で得度されるまでこの地でお過ごしになっていました。また、室町時代の足利家と関係が深く、3代将軍足利義満あしかがよしみつ以降は日野家から正室や側室をとるという慣習があり、8代将軍足利義政よしまさの正室日野富子とみこも日野家の一族です。

重要文化財壁画の修理

阿弥陀堂と阿弥陀如来坐像

阿弥陀堂と阿弥陀如来坐像 写真/神崎順一 撮影

阿弥陀堂内装飾画

阿弥陀堂内装飾画 写真/法界寺所蔵

法界寺には、国宝の阿弥陀堂、平等院の阿弥陀如来像に最も近い定朝じょうちょう様の国宝の阿弥陀如来がありますが、その阿弥陀堂の内陣の内側の壁面に飛天ひてん図10面と火舎かしゃ・楽器図が2面、外側に阿弥陀如来坐像8面、飛行火舎、華盤けばん、楽器図3面が描かれています。内壁の笈型紋おいがたもん24面、金剛界こんごうかいの曼荼羅が描かれている四天柱と合わせて密教装飾画として国の重要文化財に指定されています。壁面に描かれている壁画としては、昭和24年に法隆寺金堂の壁画が火災により焼損したため、日本最古の壁画となり、絵画史上貴重な壁画となっています。
平成10年に神戸淡路大震災によって、京都も震度5を観測し、大きな被害はなかったものの縁の細かい破片が落ちるということもあり修理することになりました。
勿論過去にこのような修理の経験はなく、国内ではおそらく初めての試みだと思われます。
現況は、壁体は欠失箇所に補填が施されており、補彩が施されている箇所は変色し、壁自体が新たに欠落している箇所も多く認められ、絵具層も表面の壁体と同時に欠落する惧れがあり、危険な状態でありました。美術工芸品保存修理事業として、平成8年から平成12年までの4年度にわたって国庫補助を受けて修理を行いました。
1年目は、足場を設置し、壁面の調査と壁体の構造図面、壁面の表面損傷図面を作製。2年目は、壁面調査、壁面の埃、汚れの除去、仮剥落止、全面合成樹脂による養生、レ-ヨン紙、和紙による表面保護、土壁の表層部の漆喰しっくい層の取り外し、京都国立博物館の文化財保存修理所での取り外した漆喰層の裏面の調整。3年目は、裏面の調整、裏面より合成樹脂にて漆喰層を固着、生漉和紙にて裏打ち、表面の養生取り外し、絵具層の剥落止、表面より漆喰層の固着。4年目は、表面の最終剥落止、現地の壁面の調整、カボン製の下地の作製、下地に修理完了の本紙を上貼り、欠失箇所に壁面と類似した素材で補填、そして最後に元の位置に取り付け、修理を完了しました。
また、今回の修理においては、地震対策が施されています。カ-ボンにワイヤ-がつけてあり、大きな地震が起こった際は、木枠との歪みを避けるため、外れてぶら下がるようになっています。勿論、その後幸いにも大きな地震はおこっていませんので、その成果はまだわかりません。
その後、平成23年に九州国立博物館の「よみがえる国宝展」に出展するため修理後初めて2面が外され、修理後の状態は異常がないことが確認され九州へと運ばれました。今後、経済面や技術面の問題もありますが内壁の飛天図、四天柱の保存修理が必要だと考えられます。

日野裸踊り

日野裸踊り行事

日野裸踊り行事 写真/日野裸踊保存会提供

法界寺のもうひとつの文化財として京都市登録無形民俗文化財に指定されている法界寺・日野裸踊りがあります。法界寺の修正会の結願けちがん日にあたる夜に行われる行事です。修正会しゅうしょうえは正月に行われるその年の五穀豊穣、万民快楽、所願成就を祈願する法会です。その起源は、天長4年(827)に東寺・西寺で7日の薬師法悔過やくしほうけかを行ったことや神護景雲2年(768)に聖武天皇が諸地方の国分寺こくぶんじで悔過法を行わせたことと言われています。悔過の特徴は、午王加持ごおうかじによる国家安寧を祈るところにあり、午王印を捺された札は、特に除災招福のお守りとして大切にされてきました。法界寺でも裸踊りの後に版木により刷られた午王印が授与されます。修正会が五穀豊穣を祈る法会であることから、以前は日野においても田畑が多く残り、畦道に立てておけば虫がつかず豊作になるといわれ、その光景が見られたものです。
法界寺においても元旦から14日間にわたり修正会が根本薬師堂で厳修され、結願日にあたる1月14日の夜に行われる結願法会に併せて法界寺・日野裸踊りが行われます。精進潔斎した幼・少年と青・壮年の二組に別れ、ふんどし一つの裸形となり、水垢離みずごりをとったのち、阿弥陀堂広縁で裸体をもみ合い、すり合い、両手を頭上高く打ち合わせ「頂礼ちょうらい、頂礼」と連呼し、寒空の空もとどけとばかりに踊りつつ祈願をこめる荘重な祭典が繰り広げられます。踊りに用いられたさらしの下帯は、妊婦の腹帯として使用すれば安産すると厚い信仰を集めています。
今後の課題としては、幼・少年の場合は少子化や教育環境の変化、青・壮年の場合は家庭環境の変化や高齢化といった問題で参加者が減少する傾向にありますが、地元日野の地域の方々の理解と協力を得て、将来に亘ってこの伝統行事を続けられるよう努めていかな
ければなりません。

特集 京都の庭園文化 3

正伝寺庭園(庭園と比叡山の借景)

正伝寺庭園(庭園と比叡山の借景)

日本には、文化財に指定・登録されている以外にも多くの庭園が残されており、その歴史や変遷、作庭の際の時代的背景や特徴などが現在に至るまで研究されてきました。こうした長年にわたる研究の成果の一つが庭園の分類です。枯山水や浄土庭園、池泉回遊式庭園など、その形態や用途、時代などによって分類されることで、多くの人々が庭園の様式を聞くだけで、おおよその庭園のイメージをつかむことができるようになってきました。
しかし、庭園に限らず、用語の意味は時代が変るとともに変化していきます。例えば、「枯山水」という言葉も、そもそもは池や流れから離れた場所に組まれた石組を意味し、今のように庭園そのものの様式を示す言葉ではありませんでしたし、釈迦三尊や阿弥陀三尊とされることが多い庭園の「三尊石」も、屋敷の魔除けの役目を果たしたり、高く組まれた滝石組を不動三尊に見立てたりと、今とは異なる意識の中で使われていたと考えられます。
また一方で、漠然とした概念や意識がありながら、近代に入るまで定着しなかった用語もありました。京都に限らず、多くの庭園で用いられる「借景」もその一つです。
借景とは、広義には、庭園の敷地の外の山並みなどを庭園の景に取り込んだものを言いますが、より厳密に、その山並みなどが庭園にとって必要不可欠な景を構成している場合にのみ用いるとする研究者もあり、確固とした定義が定まっていないのが実状です。ただ、「必要不可欠な景」となる条件は何かと考えるとなかなか難しいことになるので、広義の意味で認識している方が多いと思います。
「借景」は、もともとは中国で誕生した語句で、宋の時代、12世紀初頭の詩歌に載せられているのが最初となるようです。ただ、中国では、日本のように見渡す景だけではなく、塔や楼閣などの高い建物から周辺の庭園や景色を見おろすことも借景と考えていたようです。いずれにしても、詩歌という形で日本に「借景」の語句が伝えられたのは室町時代の中頃と思われますが、詩歌の中にある語句ということで、現実の庭園や風景と結び付いて考えられることはあまりなかったようです。江戸時代に入ると、借景についても解説している作庭書『園冶』が中国からもたらされますが、それでも借景の概念はあまり重視されることはありませんでした。19世紀に入ってようやく庭園の借景に言及する書が出てくるようになり、明治時代に入ってから、日本庭園の借景について、研究者が様々に考察を重ねるようになったというのがおおまかな借景の歴史になります。
では、近代になるまで、日本庭園は借景という意識が無いまま作られていたのでしょうか。そんなことはありません。山国である日本では、山が見えない場所というのは極めて少ないといっていいかと思います。都であり、多くの庭園が作られた奈良平城京や京都平安京、鎌倉にしても、庭園文化が花開いた奥州平泉や福井一乗谷にしても、いずれも周囲には山があります。四神相応といった風水の思想だけでなく、交通の要衝であるという政治的・経済的な理由や、攻められても守りやすいといった軍事的な理由もあったにせよ、山に囲まれた場所に邸宅や社寺を建てれば、必然的に周囲の山並みが目に入ります。高層建築物が大寺院の塔などのごく限られた数しかなかった時代、周囲に広がる山並みは見えて当然のもので、敢えて「借景」という意識を芽生えさせることが難しかったのかもしれません。
しかし、借景という意識はなくとも、人々は山を眺め、山の風景を詩歌に詠んで親しんできました。そこにあって当たり前のものにもかかわらず、季節ごと、年ごとに姿を変える山並みの風景を詠み、そして庭から山並みを眺めて詩歌を詠んだ時、庭と山並みが一つとなった「借景」を人々は体感することができたのではないでしょうか。
こうして意識されることなく培われてきた借景の概念を基盤にして、借景を意識した庭園が数多く作られ、今日まで伝わっています。今回は、その中の一つである正伝寺の庭園をご紹介します。

正伝寺庭園(現在の景観)

正伝寺庭園(現在の景観)

正伝寺は、夏の風物詩としても有名な、五山送り火の船山の南山腹にある寺院です。鎌倉時代に宋から来日した兀菴普寧ごつあんふねいの高弟であった東巌慧安とうがんえあんを開山として、一条今出川に寺院を構えたのが始まりです。建立して間もなく破却されてしまいますが、現在地に復興され、室町時代になると時の将軍足利義満の祈願所となるなど、隆盛を迎えます。しかし、応仁・文明の乱の影響で荒廃したらしく、江戸時代の始め、元和元年(1615)に再建され、さらに承応2年(1653)に本堂(方丈)が移築され、ほぼ現在に見る寺観が完成します。
庭園はこの本堂の東に面して作られており、本堂を移築した際に作庭されたものと思われます。本堂は伏見城の遺構とも伝えられますが、確たる資料はなく、左京区の南禅寺の塔頭金地院から移築されたことが確認されます。本堂のあった金地院の庭園を小堀遠州が作庭したため、正伝寺の庭園も遠州が作庭したのではないかとも言われますが、本堂が移築されたのが遠州の没後であることを考えると、遠州以外の人物による作庭と思われます。
本堂から庭園を眺めてまず目に付くのが、中央やや左手に見える比叡山です。白砂の中に植えられたツツジと庭園を囲む土塀、土塀越しに植えられたモミジの背後にくっきりと浮かび上がる比叡山の姿は何とも印象的で、春はツツジの花とモミジの新緑が、秋には紅葉が彩りを添え、土塀の白壁もまた、背後の比叡山を浮き立たせています。白砂敷の中に植えられたツツジは、向って右手(南)からボリュームを変えて、三つの刈り込みとなっていますが、こうしてボリュームや数を変えて配置する方法を造園や庭園の世界では七五三調しちごさんちょうといい、庭の景にめりはりを付けるための基本的な技法の一つです。近年では、刈り込みを石に見立て、石庭で有名な龍安寺の方丈庭園に対比させて、虎ならぬ「獅子の児渡しの庭」とも呼ばれているようです。石組がないという点では昔の定義からは外れるかもしれませんが、水を用いず、植物と白砂とで作られているという点で、この庭も枯山水庭園の範疇に含まれます。

こうした庭の刈り込みは、毎年枝が伸びた分だけ刈り込んでいればいいわけではありません。50年、100年ともたせるには、新芽が次の年も芽吹くような場所で枝を切らなければいけませんし、かといって刈り込みの形をでこぼこにするわけにもいきません。また、葉が密に覆われた内側には日があまり入らないため、放っておくと内側の枝がどんどん枯れていき、表面だけに葉が残ってしまうことになります。そうすると、ちょっと刈り込んだだけで葉がなくなってしまうので、刈り込むこと自体ができなくなってしまいます。
こうしたことにならないよう、刈り込みの形を崩さないようにしながら、内側に日が入るように枝を間引きながら上手に刈り込んでいくことで庭園の景観は保たれていくわけですが、時勢がそうしたことを許さない場合もあります。
京都に限らず、明治維新後の寺領・社領の召し上げ、いわゆる上知によって、経済的基盤を失った寺社は大変苦しい状況に追い込まれました。ここ正伝寺でも、無住に近い状態が続き、仏殿を売り払うなど、苦しい時期が続き、その間、庭園は十分に管理されることもなく、刈り込みも次第に形を崩していきました。昭和初期の写真を見ると、枝が枯れて刈り込みの形が崩れているだけでなく、高木が生えて、比叡山への借景を妨げている様子が確認されます。

『聚楽』第1期分合本(昭和4年(1929)以降)

『聚楽』第1期分合本(昭和4年(1929)以降)

こうした時期に、庭園の景観の復元を指導・監督されたのが、作庭家・庭園研究家として名高い重森三玲氏です。昭和9年(1934)に自ら主宰されていた林泉協会の見学会で正伝寺に赴いた重森氏ら一行は、即座にその復元を決意し、翌昭和10年(1935)に不要な樹木の伐採や明治期になって据えられた石の除却などを行い、旧観を復元しました。
その後、刈り込みの管理も十分に行われるようになり、かつての姿を取り戻した庭は、京都市の文化財(名勝)に指定されています。借景の庭というと、借景が主であって、庭の景は従であるとする向きもありますが、その歴史から、借景を借景たらしめるのは庭園本体であるということを正伝寺の庭は伝えるとともに、昔ながらに比叡山の山並みを背景に私たちの目を楽しませてくれます。

京都の文化遺産を守り継ぐために 「西之京瑞饋神輿 ~野菜神輿の不思議な魅力~」

瑞饋神輿 撮影 神崎順一

瑞饋神輿 撮影 神崎順一

北野天満宮・瑞饋神輿ずいきみこし作りは、毎年9月1日、「千日紅せんにちこう」摘みから始まる。千日紅は熱帯アメリカ原産で古くに日本に伝わったと云う。草丈50㎝ほどの枝先に直径約2㎝の球状の赤い花をつける。西之京瑞饋神輿保存会会員の農家3軒の中京区西ノ京などにある畑で栽培されている千日紅の花を摘む。会員30数名の多くが非農家となった現在、千日紅摘みとズイキの収穫は土に触れる大切なときでもある。
翌2日の夜7時ごろになると「今晩は」「暑いな」と言いながら、上京区西之京北町にある保存会集会所に会員が集まって来る。木造平屋建て書院造りのエアコンもない建物での「夜なべ」作業は、時代を超えタイムスリップした空間となる。8時半までの夜なべ作業は9月中頃までほぼ毎晩続く。
作業の一つに千日紅の花を糸に通して長さ2mぐらいの数珠状にしていくのがある。瑞饋神輿のズイキの屋根から下にのびた「真紅しんく」と呼ぶ柱に使う。数珠状の千日紅の赤い花を糊付けしながら二人が息を合わせて柱に巻いていく。1本の真紅に必要な花の数は約2千個。真紅は4本あり、子ども神輿の真紅にも使うので、1万個ほどの千日紅の赤い花が要る。最後に白色の千日紅の花で天満宮の文字を描く。見事なドライフラワーの完成である。

稲藁の梅鉢紋の房

また集会所の玄関を出た所ではわら打ちが「トントントン」と小気味よい音を立て行なわれている。真紅に飾る稲藁の梅鉢紋うめばちもんの房を作る為に。集会所内では柔らかくなった藁をう人がいる。出来上がった2mの藁縄は梅の形に編む人に託される。さらに集会所に収穫し立ての新米の稲穂が運ばれ、藁をはずして揃えられる。この稲藁や稲穂も会員農家が作ったものである。
瑞饋神輿は金色に輝く麦藁を、様々な文様に彫って各所に使っている。なま物と違って何年も使えるが、傷みの激しい所から取り替えている。麦は会員農家が作り、春3月の夜なべ作業で、麦藁を開き、中の肉汁を取り除き、和紙に糊貼りする。七宝や龍、梅、三蓋松といった文様は、昔から友禅の型彫屋さんに彫ってもらっている。出来上がった文様を9月の夜なべでは、赤や緑や金銀の和紙に貼ってから土台に貼り付ける。龍などは何色もの和紙の重ね貼りとなり、腕に自信のある会員の仕事である。

人気の細工物

左上:ズイキ畑,右上:ズイキの収穫,下:ズイキ屋根葺き

左上:ズイキ畑,右上:ズイキの収穫,下:ズイキ屋根葺き

神輿の四面を飾る欄間らんま桂馬けいま腰板こしいたと呼ばれる「細工物さいくもん」の担当者は、夜なべと併行しての製作となる。四面共通のテーマはなく、毎年、趣向を凝らして各々が題材を考えることになっている。題材はその年の干支、NHKの大河ドラマ、昔話は今も主流であるが、ハリーポッターやガリバーなど時代の流れを感じられるのもこの神輿の特徴である。これらの作品も自然の物を使って作ることになっている。干しズイキ、ズイキの葉、なんば(とうもろこし)の皮や毛、九条ねぎや南瓜の種。青のり、ススキなど。
9月下旬、西之京の神輿町が各々、神輿作りを分担していた唯一の名残である「鳥居の海苔貼り」が集会所で行なわれる。西上之町にしかみのちょうの住人8人ほどが集まり、鳥居の笠木に貼ってある古い寿司海苔を削り取り、新しいのを貼る。いい香りが漂う。

色鮮やか野菜瓔珞

野菜瓔珞作り

野菜瓔珞作り

神輿の四角よすみを飾る色鮮やかな「野菜瓔珞ようらく」は赤ナス、五色トウガラシといったなま物を使うため、9月末の昼間の作業となる。会員農家が朝、赤ナス、五色トウガラシを株ごと集会所へ。鋭いトゲがいっぱいの枝から実をはずす。赤色と緑色の赤ナスの実、五色トウガラシをタコ糸に通していく。麦藁細工の家紋も使いながら、縦横組み合わせて立体的に組み立てる。激辛トウガラシなので針を舐めると大変。この作業と併行して、梅鉢紋の飾りに付ける柚子のくり抜き、稲穂束ねが行なわれる。
9月30日朝、いよいよズイキの収穫。会員農家が丹精込めて育て、背丈より大きくなった赤ズイキ(とういも)、青ズイキ(真芋まいも)。赤ズイキは頭芋かしらいも(里芋の親芋)も神輿で使うので株ごと起こす。その数70株。青ズイキは丈の長いズイキ部分だけ200本切り取る。午後、神輿の土台(木製)がある北野天満宮御旅所(中京区西ノ京御輿ヶ岡町)にてズイキで屋根を葺き、各部各部を寄せ木細工のようにはめていく。10月1日、野菜瓔珞ようらくを吊り下げ、地元の彫刻家による一刀彫りで阿吽の獅子に変身した頭芋4対を飾り終えると、神宿る神聖な瑞饋神輿の完成である。
2日・3日の午前中は、地元の小学校7校が授業として見学・説明を受けに来る。事前に案内を出すことで学校数が増えた。また1日~3日夜、会員による「ナマ説明」タイムを2013年より設けた所、大変好評を得ている。

瑞饋神輿の歴史

瑞饋神輿 巡行

瑞饋神輿 巡行

瑞饋祭は、平安時代に西之京神人にしのきょうじにんが五穀豊穣を感謝し、菅原道真公の神前に新米・野菜・果実に草花などを飾り付け、お供えしたのが始まりと云われている。室町時代に入り西之京神人は幕府より酒麹造りの独占権を与えられ、莫大な利益を得た。1527年頃には人物花鳥の細工物さいくもんも入ったお供を酒麹造りに使うおけに2本の棒を付け荷うようになった。瑞饋神輿の原型である。1607年には葱花輦そうかれん型神輿とし、瑞饋ずいきの音韻にちなんで里芋の茎(ズイキ)で屋根を葺いた。瑞饋神輿の始まりである。現在と同じ形式の四方に簾をかけ唐破風からはふ四方千木しほうちぎ型になったのは1802年。
江戸時代、街と田舎が同居する西之京にあって、瑞饋神輿は百姓と職人文化の見事なコラボレーションと云える。毎年同じ様に作る定番部分と、欄間らんまなど毎年変わる流行はやりの部分がうまくマッチするアイデアはこの神輿の真髄かもしれない。その心は田畑も農家も少なくなったいまも受け継がれ、10月4日午後、上京区と中京区にまたがる西之京各町を、昭和2年製作の立派なみこし車に載せて子ども神輿ともども賑やかに巡行する。そして翌日、解体され、なま物は土に還る。

文中写真:西之京瑞饋神輿保存会提供

特集 京都の庭園文化 2

渉成園 「傍花閣」

渉成園 「傍花閣」

江戸時代、幕藩体制が整えられる中、参勤交代の制度が定められます。各大名が定期的に江戸と国許を往復するよう定めたこの制度が、大名の監視や財政負担を増大させる目的を兼ねていたことは日本史の教科書などでも登場する説明ですが、この制度によって、文化の交流が活発となったことはあまり紹介されていません。
定期的に国許と江戸を往復する大名とその家臣達は、江戸だけでなく、交流のある藩や往復の経路の途中にある各地の文化をも国許に持ち帰ることとなりました。そして江戸へ参勤となれば、国許で育んだ文化を江戸に持ち込み、江戸や他藩の大名達に自藩の文化を広めるといったことが繰り返されていったのです。
こうするうちに武士達の互いの交流のための共通の文化的な基盤ができてきました。千利休が大成した茶道もその一つと言えますが、庭園もまた共通の文化として広まっていきました。回遊式庭園や大名庭園といわれる、広大な敷地に茶室などを配置し、様々な遊興の場を提供する庭園の誕生です。江戸では、故郷や各地の名所の風景を再現し、御成りで来られた、あるいは招いた人物に存分に楽しんでもらうための迎賓施設としての役割を果たす一方、国許では、町民・農民達にも他所の風景や文化を堪能してもらうとともに、藩主の威信を皆に知らしめる役割の一部を庭園が担っていたのです。
さらに、広い庭園は「ここだけの話」をするにもうってつけの場所でした。現在のように皆に一斉に情報を伝える手段の無かった時代、来園した人物に頼みごとをしたり、内密の情報を伝えてもらったりと、庭園は、華やかさの裏側では政治的な思惑の渦巻く舞台ともなりました。

渉成園 『都名所図会』

渉成園 『都名所図会』(安永9年・1780)

もちろん、庭を観賞するとともに、詠歌や演能など、文化的な活動も繰り広げられていましたが、京都の庭園でも、こうした政治的な事柄と無縁に庭園を作るわけには行きませんでした。
幕府の直轄地(天領)であった京都に大名庭園があるか、と言われてまず思い浮べるのは二条城二之丸の庭園でしょう。ただ、二条城は初期と幕末を除いて、主のいない、使われていない城でしたので、様式としては大名庭園でも、文化・政治の舞台となった「生きた」大名庭園ではなかったといえるかと思います。こうした武家の庭園とは別に文化・政治の舞台となったのは、主に寺院の庭園でした。
江戸時代の寺院神社の多くは領地を運営することで成り立っており、京都の寺院神社の場合、その運営について幕府の指導を受ける立場にありました。宗派の本山寺院ともなると参勤交代こそありませんでしたが、折に触れ、江戸に参上する必要もあり、武士達との交流は必要不可欠でした。
一方で、京都の寺院神社は、朝廷とも関係があるのが普通でした。皇室の親王等が入られた門跡寺院はその最たるものといえますが、こうした武家や公家との交流の場の一つとしても庭園が用いられていたと考えられます。
実際、江戸時代の京都の名所図会に紹介されている、広い敷地をもった回遊式の庭園の歴史を調べてみると、大名庭園と同様の役割を担っていた庭の姿が浮かび上がってきます。ここではそうした庭園の一つとして渉成園を紹介しようと思います。

『日本名園図譜』

『日本名園図譜』(明治44年・1911)に見る臨池亭など

渉成園は東本願寺の飛地境内地で、慶長7年(1602)に徳川家康から寄進された地に東本願寺が造営されて後、寛永18年(1641)に徳川家光により寄進された土地の一部に第13代宗主宣如しゅうしゅせんにょ上人が隠棲の地として造営されたのが始まりとなります。四周に枳殻(カラタチ)が植えられていたことから名付けられた枳殻邸きこくていという呼び名の方が知られています。また、退隠した宗主、つまりは隠居の屋敷であることから、「隠居(御)屋敷」とも呼ばれていたようですが、江戸時代の中頃になって宗主が在任のまま亡くなるようになると、宗主の家族や親戚筋の人物が居住していたようです。
東本願寺では、宗主になる人物は公家の近衛家の猶子ゆうしとなり、歌や能などを伝授されるのが慣例となっており、文芸の師匠であった近衛家の当主らを渉成園に招いて手ほどきや指導を受けていたようです。近衛内前うちさきのお供として渉成園を訪れた冷泉為村が残した記録によると、園内をくまなくめぐった一行は中国風の服装をした芸人たちが小船に乗って何やら演じているのを見て驚いたり、偶仙楼から比叡山を含めた東山の風景を眺めるなど、趣向を凝らしたもてなしを受けていたことが窺えます。
こうした記録を見ると、渉成園が単なる隠居の住まいではなく、大名庭園にあるような迎賓、もてなしの空間として利用していたことがわかりますが、それがより一層はっきりするのが文政8年(1825)9月に渉成園を訪れた、時の老中水野忠成ただあきらの訪問です。
特に災禍も受けずに江戸時代前半を過ごした東本願寺ですが、後半になると天明8年(1788)の天明の大火を最初に、幕末までに4回の火災に見舞われます。江戸時代後半の東本願寺の歴史は焼失と再建の歴史であったともいえます。
寺の建物にしても、寺領に住む町民の住まいにしても、再建に必要なのはまず材木です。寺領に山林がなく、再建のため木材は門徒らの献木によって賄われましたが、創建の際、幕府より飛騨の材木の下賜を受けたことを先例として、再建に際しても幕府から材木を下賜されました。
水野忠成が渉成園を訪れた時期は、文政6年(1823)に本山が焼失して再建が進められている途上、まさに材木の拝領がかなった後にあたります。材木拝領の礼の意味も込め、周到に準備が行われたことは想像に難くありません。

『日本名園図譜』

『日本名園図譜』(明治44年・1911)に見る渉成園の印月池と漱枕居

南門を入り、大書院に通されて挨拶を受けた忠成は、印月池に面した漱枕居から舟で縮遠亭にわたって後、園内をめぐり、最後は偶仙楼に上がって晩餐をいただき、辞去します。残されている記録からは確認できませんが、恐らく誕生して間もない渉成園十三景の説明を受けながらの拝観であったものと思われます。
そもそも景や境を選ぶということは、その場所が世にも稀な風景や歴史を持つことを知らしめる意味を持ちます。それまでは隠居の屋敷として、どちらかというとつつましく、内輪で利用されていた渉成園を天下の名園として世に広める。渉成園の歴史にとっては一大転換ともいえる十三景の誕生ですが、18世紀の終わり頃に定まったと考えられるものの、誰がどのように定めたかはわかっていません。
一般に、滴翠軒、傍花閣、印月池、臥龍堂、五松塢、侵雪橋、縮遠亭、紫藤岸、偶仙楼、双梅檐、漱枕居、回棹廊、丹楓渓の順に紹介されている十三景ですが、この順は文政10年(1827)に頼山陽の書いた『渉成園記』によるもので、最初からこの順番となっていたわけではないようです。恐らく、『渉成園記』によって渉成園の名が世に知れ渡るに従って、十三景の順番も『渉成園記』にならうようになったものと思われます。
『渉成園記』には、正門は南門であること、園内の樹木が高くなっていて東山を望めなくなっていたこと、印月池を舟で渡って縮遠亭に向う際、縮遠亭の準備が整うと、臥龍堂の鐘を鳴らして合図することなどが記されており、後の火災により失われてしまった臥龍堂や偶仙楼のあった時代の様子を窺うことができます。
実際に園内を歩くと、全般に景石や石組の護岸が少ないことに気付きます。何度もの火災と再建を経て、石が失われたこともあるかも知れませんが、東本願寺に残されている古い図面を見ると、もとからあまり石を用いずに作庭したものと思われます。
また、一般的に回遊式の庭園といわれるものは、庭園の中央付近に大きな池があり、その周りを回遊できますが、渉成園の場合は、印月池が敷地の東寄りにあるため、池を一周できないという特徴があります。古い図面から、これは渉成園が狭くなったわけではなく、もともと印月池を一周できるように作られていないことがわかりますので、池越し、あるいは中島にある縮遠亭から背景の東山を眺めるということを主眼に作られているものと思われます。
このように、隠居の住まいから、京都の名園へと変貌した渉成園は、景石などの造形より、東山を背景とした雄大な空間を、十三景のあった往時の風景を思い起こしながら楽しむ庭として、今は広く一般に公開されています。

京都の文化遺産を守り継ぐために 「京都の剣鉾差し」

図1 西院春日神社の剣鉾差し(長谷川奨悟 2011撮影)

図1 西院春日神社の剣鉾差し(長谷川奨悟 2011撮影)

京都市内には、4つの「剣鉾差けんほこさし」と呼ばれる京都市登録無形民俗文化財がある(図1)。そのほかにも、剣鉾が登場する祭礼行事は、市内で約50カ所にのぼる。
剣鉾とは、祭具としての鉾の一種であるが、一見してわかる特有の意匠がみられる。それは、非常に長い棹があり、その先に非常に薄くてよくしなる剣が付く。剣の刃先は菱形をしており、剣と棹の間には、花や龍などをあしらった錺金物かざりかなものによって装飾される。棹には、りん吹散ふきちりがつけられる(図2)。

図2 御霊神社の蓬莱鉾

図2 御霊神社の蓬莱鉾(武者小路町)(福持昌之 2012撮影)

剣鉾は、剣の振幅と鈴の響きによって周囲を浄める呪力を持つとされ、祭礼においては神輿巡幸の先陣を切って進む。その際、剣鉾は天を指すように立てて運ばれるが、これには相当の技術が必要で、これができる人たちは鉾差しと呼ばれ、専門家として氏子の地域外から呼ばれてくることが多い。また、剣鉾そのものは神社の所有する祭具でも、外部から鉾差しが持ってくるものでもなく、氏子の一部が鉾仲間もしくは鉾町を組織して護持していることが多い。
そういった伝承基盤や伝承組織の特徴は、山鉾町が護持しつつも外部から大工方や車方、囃子方などの専門集団の協力を得て催行している祇園祭の山鉾と似ている。祇園祭の山鉾は、本体(構造材)はもちろんであるが、なかでも絢爛たる錺金物や染織品に意匠を凝らし、こだわり抜いて作らせた、都の粋の結晶である。剣鉾も規模こそ違え、護持している町民たちがお金を出し合って山鉾同様に錺金物に工夫を凝らし、吹散も次第に豪華になっていった様子がうかがえる。自分たちの町に山鉾があることが一種の誇りであるように、剣鉾もまた、それを護持している人たちにとって誇らしい存在であった。

剣鉾と山鉾との関係

従来、「剣鉾は祇園祭の山鉾の原形である」という説明もされてきたが、正確には古代以来の武器の系譜をひく祭具としての鉾から、剣鉾と山鉾のそれぞれに発展していったものである。
確かに、巨大な山鉾に比べると剣鉾はかなり小さく、プリミティブな存在と思われがちである。しかし、剣鉾は本来の鉾とは棹の長さも、形状も大きく変化を遂げている。そもそも、古代にはすでに儀仗用として鉾が用いられており、それほど姿を変えずに現在も祭礼行列に見られる。あまり知られていないが、祇園祭でも山鉾とは別に、神輿の前をこの古いタイプの鉾(剣鉾ではない)が供奉している。
祇園祭では、祇園会ぎおんえとして始められた当初から鉾は重要な祭具としての位置を占めていたようである。しかし、いわゆる山鉾が登場するのは中世になってからである。14世紀初頭の史料では、鉾と鼓(囃子)が一体であったことがわかるが、鉾の形態についての記述はない。14世紀中葉になると、「作山風流つくりやまふりゅう」「久世舞車くせまいくるま」などの記述が現れ、それらが今日につらなる山鉾である。
一方、剣鉾は15世紀半ばの成立とされる「祭礼草紙」(公益財団法人前田育徳会所蔵)で描かれる。ただし、この鉾の長さが短く、錺の意匠も非常に簡素で、黎明期の剣鉾といった感が強い。16世紀前半の「月次風俗図扇面」(出光美術館蔵)や、永禄8年(1565)の「上杉本洛中洛外図」(米沢市立上杉博物館蔵)になると、棹尻を腰に緩く巻いた帯に差しこみ、絶妙なバランスを取りながら巡行する姿が描かれるようになる。
このように、資料からは、剣鉾は山鉾の先祖ではなく、弟分ということになる。

剣鉾の登場

図3 藤原清春画「神幸図」

図3 藤原清春画「神幸図」(福原敏男氏提供)より「石竹ノ御鉾」以下の「御鉾」

剣鉾という語は、出雲路敬直氏が昭和46年(1971)に論文「剣鉾考」を発表してから広まった。京都市が昭和59年度(1984)から翌年度にかけて大がかりな剣鉾の分布調査を行ない、出雲路敬直氏が指導的役割を果たし、その頃から公的に認知されるようになった。そして、平成2年に市内4か所の「剣鉾差し」が京都市の無形民俗文化財に登録された。
現在、剣鉾という語は研究者や鉾差したちは当り前に使っている。しかし、剣鉾を護持している人たちには、それほど定着はしていない様子である。剣鉾は従来、剣と棹の間にある錺金物の意匠―多くが植物文様や霊獣である―をもって呼称するため、龍鉾、麒麟鉾きりんほこ、菊鉾、澤瀉鉾おもだかほこなどと呼ばれる。まれに、太刀や剣があしらわれている場合があり、その場合は太刀鉾たちほことか剣鉾つるぎほこと呼ぶが、それらを総称する呼称としては、単に「鉾」であることが多い。

図4 藤原清春画「神幸図」

図4 藤原清春画「神幸図」(福原敏男氏提供)より神宝の「大手鉾」「祭ノ鉾」

江戸時代の剣鉾の呼称について参考になる資料として、下御霊神社の神幸祭を描いた天保4年(1833)の摺物がある。図の下部に由緒等の説明があり、「御鉾并神宝守護町々」の項目に「石竹ノ御鉾」以下12基の「御鉾」が列記されている。図の部分と照らし合わせると、これらがいわゆる剣鉾であることがわかる(図3)。また、「御鉾」とは別に神宝として祭御鉾、大手鉾といった鉾もあるが、これらが剣鉾ではないことも図からわかる(図4)。つまり、鉾町が出す御鉾(剣鉾)と、神宝としての鉾(祭鉾、手鉾)とが区別されているのである。
ただ、剣鉾を示す御鉾という語が、下御霊神社だけの用語であった可能性もあり、総称としての剣鉾を示す用語として一般的だったものかどうかは断定できない。下御霊神社でも、明治期の『下御霊神社誌』(1907)では御鉾のことを「指鉾(筆者注・さしほこ)」と表現するなど、固定化はしておらず、剣鉾を総称して示す呼称は、それほど普及していなかったといえる。

多彩な剣鉾のまつり

図5 恵美須神社の博団山

図5 恵美須神社の博団山(博多町)
(溝辺悠介 2011撮影)

下御霊神社の摺物では、鉾差しが一人で支える剣鉾以外に、数人がかりで運ぶ剣鉾も描かれている。『下御霊神社誌』(1907)では、「指鉾」の項に記載されたうちの一つ菊枝折鉾について、枠造りになってき行くようになったと紹介されている。こういった形態の剣鉾は、後に「荷鉾にないほこ」とも呼ばれることがある。枠造りの剣鉾のなかには、吹散に幅の広い綴織つづれおりなどをあしらい、四周に胴幕どうまくを巡らせるなど、祇園祭の山鉾を彷彿とさせる剣鉾もある(図5)。
明治になると、大通りに市電の架線が張り巡らされたために、剣鉾を差して巡行することが難しくなり、それを機会に棹を短くして枠造りにしたという話をよく聞く。そうでなくても、何らかの理由で鉾差しを呼ばなくなった地域や、あるいは地域住民が鉾を差していたが差せなくなった場合に、このような改造をしていることもある。
ただ、枠造りへの改造は江戸時代からみられ、そのような要因だけではなかったようである。そもそも、鉾差しがいない神幸行列だからといって枠造りにする必要はない。その場合、剣鉾を立てないで寝かせたまま、鉾頭に2人、棹尻に1人の合計3人で肩に乗せて運ぶのが基本である。また、巡行に供さなくても、会所や輪番であたる個人宅などで、祭壇をつくって剣鉾の鉾頭を飾ったり、庭先や門先に剣鉾を立てて飾るなどの事例もあり、剣鉾を伴う行事のありようは多様である。

〔主要参考文献〕
出雲路敬直「剣鉾考」(『京都精華学園研究紀要』第9輯)、1971年
出雲路敬直「剣鉾覚書(1)」(『京都精華学園研究紀要』第10輯)、1972年
出雲路敬直「剣鉾覚書(2)」(『京都精華学園研究紀要』第11輯)、1973年
『剣鉾の伝統展―京の祭の遺宝』京都市社会教育振興財団編・発行、1986年
『京都市の文化財 第八集』京都市文化観光局文化部文化財保護課編・発行、1991年
『祇園祭大展―山鉾名宝を中心に』祇園祭山鉾連合会、京都文化博物館、京都新聞社編・発行、1994年
『京都の剣鉾まつり』京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編・発行、2011年
『京都 剣鉾まつり調査報告書』京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編・発行、2014年

京都の文化遺産を守り継ぐために 「大原野神社の文化財保存の取り組み」

大原野

向日市の西、凡そ西山山麓に位置する大原野は京都市域の都市化が進む中で市街化調整区域、京都府歴史的自然環境保全地域として自然が豊かに残され、古の都長岡京や日本最古の物語である竹取物語、源氏物語とその作者紫式部等との縁も深く歴史の風情を感じると共に、鎮護国家の古刹も多く存在し文化財にも恵まれた良き地である。

大原野神社

大原野神社境内

大原野神社境内

大原野神社本殿

大原野神社本殿

当神社は延暦3年(784)の長岡遷都に際し、桓武天皇・皇后が藤原氏の氏神、奈良春日社の神を勧請したのに始まる。のち、藤原北家の願により文徳天皇によって西山、小塩山麓の現在地に壮麗な社殿が造営された。以来、中世後期まで春日社に次ぐ藤原氏の氏神として春日社に準じる祭祀をうけ、歴代藤原氏出身皇后の参拝が長く続いた。近代社格制度により明治4年5月14日には官幣中社に列格した。
中門とその東西廊の奥に春日造り檜皮葺きの本殿四棟が東西に並ぶ現社殿は慶安年間の造営で、去る平成20年3月には昭和45年以来38年ぶりとなる修復工事を終えている。本殿四棟、中門とその東西廊は京都市指定有形文化財で、他に摂社として鯉沢池東方に若宮社(未指定)がある。


摂社若宮社の修復

修復前後の摂社若宮社(修復前)

修復前後の摂社若宮社(修復前)

修復前後の摂社若宮社(修復後)

修復前後の摂社若宮社(修復後)

若宮社は本殿同様に丹塗り檜皮葺きの一間社春日造で、創建年代は詳らかではないが春日社系社殿の形態をよく伝えるものとして価値が高い。この度、昭和62年の屋根葺き替えより26年を経て檜皮屋根の腐食や動物による損傷が著しく、内部に雨漏りの生じる恐れもあることから平成25年9月から同年12月末にかけて修復を行った。この事業に対し公益財団法人京都市文化観光資源保護財団より助成を頂いたことは、社殿のみならず境内整備に経費のかさむ当神社にとって大変有難いことで、紙面をお借りして衷心より御礼申し上げる次第である。
さて、26年ぶりの若宮社の修復に対し、6年前に38年ぶりの修復を終えた本殿四棟を始め中門とその東西廊であるが、一般的に言われる檜皮屋根の耐用年数35年を考えると若宮社の屋根の耐用年数は短すぎる感がある。これは立地条件による通気性の悪さや周囲に繁茂する樹木が要因と考えられることから、その保存管理においては目先ではなく50年後100年後を見据えた周辺環境の整備が必要であり、当神社の今後の課題でもある。


文化財保存の取り組みと苦労

本年、西京区に竹をイメージしたマスコットキャラクター「たけにょん」が誕生したように、ここ大原野でも筍は特産品の代表である。実は当神社の境内(約2万5千坪)は三方を竹林に囲まれている為、毎年4月中旬から5月中旬にかけては定期的に境界を歩き、境内に生えてくる筍(時には竹に成長している)を倒したり切ったりして境内への侵入を防いでいる。時には農家の嫌われ者である猪が私の良きパートナーとなり、夜間に土まで掘り起こして存分に筍を食べてくれてはいるが、それでもこの春に私が処分した筍の数は数百にのぼる。ご存知の通り竹は繁殖力が強く、これを放置すれば社殿の周囲が竹林で覆われてしまい、もはや手の付けられない状態になってしまう。ちなみに、この度修復を終えた若宮社の南側十数メートル先は孟宗竹の薮である。
次に、平成17年6月に関西野生生物研究所の川道先生がアライグマなる動物の調査に来られ、柱に残る多数の爪痕からこの動物の存在を確認された。それまでの私はというと、タヌキとアライグマの区別もつかぬほどで、実際に社殿に接する土塀の上を歩いているアライグマを見たり、夜間に社務所の天井裏から大きな物音を聞いたりしていたが、いずれもタヌキや猫だと思っていた。そして、改めて川道先生からアライグマの生態や文化財に及ぼす影響についてのお話を伺い捕獲の必要性を痛感し、以来その実践に努めている。平成17年7月からのアライグマの捕獲数は56頭に上る。(10月3日現在)
私にとって「文化財を守ること」とは「境内地を守ること」であり、先に述べた竹やアライグマの問題は一生の課題である。何事も続けるというのは大変なことで、「根気強く頑張ってください。」との川道先生の言葉が私を後押ししてくれている。福井県の中でも特別豪雪地帯に指定される地で生まれ育った者らしく、今後もねばり強く対処していく所存である。

特集 京都の庭園文化 1

平安神宮神苑

平安神宮神苑(東神苑の橋殿「泰平閣」)

京都は平安京造営以来、数多くの庭園が作られてきました。長い年月文化・政治の中心であった京都では、寝殿造式、書院式、枯山水、茶庭(露地)、回遊式など、日本庭園を分類するために命名された様式の庭園は全て作られていたといっても過言ではありません。
もちろん、京都以外にも平泉や鎌倉、一乗谷や江戸など、各時代、各地で独自の庭園文化が生まれ、多くの名園が作られていますが、少なからず京都の庭園文化の影響を受けていることは言をまたないところです。
このように庭園文化を継承してきた京都ですが、政治・文化の中心地であるがゆえに、常に変化も求められてきました。新しい宗教の普及、武士などの新興勢力の台頭による政治・経済情勢の変化などにより生活様式が変わるたびに、京都では新しい庭園像を求めて試行錯誤が重ねられていたのです。江戸幕府が倒れ、新政府が誕生した明治時代も例外ではありませんでした。
それまでは朝廷を中心とする貴族社会や寺社などの宗教社会を支える役割を担っていた京都ですが、奠都により華族となった貴族達は東京に移り、神仏分離や廃仏毀釈といった宗教政策により寺社の経済基盤が失われることにより、京都の経済社会は根底から覆されることになってしまいました。この時期、奈良興福寺の五重塔が売りに出されたことが有名ですが、京都でも多くの社寺の建物が売却されたり、公共施設として接収される中で庭園もまた失われていきました。

大正期の平安神宮神苑

大正期の平安神宮神苑
出典:「Characteristic Gardens in Japan.」高木庭次郎 大正9年(1920)発行

大正期の平安神宮神苑

大正期の平安神宮神苑
出典:「Characteristic Gardens in Japan.」高木庭次郎 大正9年(1920)発行

そして明治も後半になり、政治状況が安定し、経済が発展していくと、政財界の著名人がこぞって京都に別宅を構え、庭園を作るようになります。山縣有朋の無鄰菴を皮切りにした、現左京区の岡崎・南禅寺界隈に残された別荘庭園群が特に有名ですが、東京に住んでいた政財界の中枢人物だけでなく、京都の政財界で活躍していた人達も別邸を営み、市内各地に庭園を作っていきました。
こうした、京都の変化を克明に捉えようとした人物の一人に秋元興朝(あきもと おきとも、安政4年~大正6年・1857~1917)がいます。興朝は現栃木県宇都宮の戸田家の出身で、長じて現在の群馬県館林を治めていた秋元家に養子に入り、貴族院議員となって政治家として活躍した人物ですが、幼少の頃に京都にいたことが関係しているのか、京都の歴史ある文物にひとかたならぬ関心を示し、公務の合間に京都を訪れてはその様子を記録していきました。四半世紀にわたる京都の見聞録とでもいう記録は、没後に『旧都巡遊記稿』として出版されましたが、それを読むと、江戸時代に著名でありながらもやがて失われてしまう社寺や庭園の様子など、当時の京都の様相が詳しく記されています。
一方、『旧都巡遊記稿』には近代の文物は全くといっていいほど登場しません。新しい物を作っても魂が込められていなければ価値が無いと考えていたのでしょうか。興朝はそうした自分の心情を述べていませんが、近代化を進めていく京都を少し寂しい思いで見つめていたのかもしれません。
そして、興朝が亡くなってほぼ100年経った現在。円山公園や琵琶湖疏水などの公共施設、平安神宮や無鄰菴といった新興の庭園なども近代という時代を象徴する歴史的な文物として文化財に指定される時代になりました。平安京以来、変化しながらも連綿と続いてきた京都の文化。その中で今回は明治時代の庭園の一つ、平安神宮神苑に焦点をあて、ご紹介しようと思います。
平安神宮が平安遷都千百年紀念祭や第4回内国勧業博覧会にあわせて創建されたことはよく知られていますが、桓武天皇を祀った新たな神社を創建しようという動きは明治10年代からありました。奠都によって衰退が著しい京都の復興策の一つとして、千年以上栄えてきた京都の歴史を見直し、顕彰するため、平安京造営に携わった桓武天皇を祭る神社を創建する、という構想を最初に打ち出したのは岩倉具視でしたが、ほどなく具視が死去したために具体化しませんでした。

平安神宮神苑(西神苑)

平安神宮神苑(西神苑)

そして、平安遷都千百年紀念祭に際して、神社創建の動きが活発となりますが、まず決まったのは記念の施設として「模造大極殿」を建立することで、平安神宮の創建が決定されるまでには若干の紆余曲折がありました。課題となったのは、敷地や資金の確保、後の維持の手法などについてで、それらの課題を一つ一つ解決していき、明治26年(1893)9月の地鎮祭を迎えることになり、その後、大極殿などの建築や敷地の造成などが順次行われていきました。現在の西神苑と中神苑(当時は中神苑を東神苑と呼んでいました)の作庭の工事が始まったのは明治27年(1894)の12月からで、それを請負ったのが植治こと7代目小川治兵衛です。
小川治兵衛はその時34歳。並河靖之邸(現在の並河靖之七宝記念館)の作庭をすでに終え、山縣有朋の無鄰菴の作庭にとりかかってはいたものの、まだ若く、無名といってもいい状態でしたが、この大工事に取りかかります。与えられた工期は3ケ月。追加の工事もあったために工期が延長されますが、かなりの突貫工事であったと思われます。
設計書を見ると、庭園部分だけでも延べ2千人近い人夫を使っての大工事であり、植治にとってもこれほどの規模の作庭は初めてだったでしょうが、着実に仕事をこなし、神苑を完成させます。以後、平安神宮神苑の改修などは、一貫して植治が担うこととなり、その関係は植治が亡くなるまで続きました。
今でも同じことですが、庭園は設計書通りに作ればいいものではありません。望んだような材料が手に入らなかったり、実際に樹木を植えてみると思ったような景観とならなかったりした場合、修正を加えていく必要があります。平安神宮では、当初、西洋式庭園のような雰囲気の神苑を目指していたようですが、本殿や大極殿など、昔ながらの様式の建築と対比した場合、荘厳さに欠けるという指摘もあり、途中で植栽する樹木などを変更しながらの作庭となりました。
完成した神苑は中神苑の流れと流れに続く西神苑の白虎池からなり、池や流れの岸の護岸も穏やかな作りで、植治の作風の萌芽を感じ取ることができます。白虎池の周囲の樹木の高さも絶妙のバランスを保つように考えられ、作庭間もない時期の写真と今とを比べてもあまり違いはありません。また、中神苑は当初は高木も少なく、東山が望めるように作られており、かなり明るい雰囲気の流れであったと思われます。ちょうど山縣有朋の別邸無鄰菴を作庭している時期とも重なるため、あるいは無鄰菴の流れの意匠の影響を受けていたのかもしれません。

平安神宮神苑

平安神宮神苑(中神苑の沢飛石「臥龍橋」写真 右端)

そして、明治の末に、現在の東神苑の敷地を境内に編入すると、再び植治に作庭がまかされることとなり、栖鳳池を中心とする東神苑が作庭され、あわせて中神苑も改修され、現在見るような神苑の姿が完成します。
この改修で中神苑には臥龍橋(がりゅうきょう)と呼ばれる中島に渡るための沢飛石が作られました。四角い石と丸い石を組み合わせた軽妙さにも感心しますが、この石はもともとは三条大橋や五条大橋に使われていた橋脚などを再利用したものです。植治はこうした橋脚の石だけでなく、臼石など、加工された石を庭の随所に用いるようになりますが、平安神宮はその初期の事例となります。

平安神宮神苑

平安神宮神苑(東神苑の橋殿「泰平閣」)

また、神苑内にしわが目立つ石を見かけることがありますが、この石を守山石(もりやまいし)といいます。琵琶湖の西岸に産出するこの石は江戸時代にも使われていたようですが、琵琶湖疏水の開通に伴って、琵琶湖から船に載せて大量に運び込むことが可能になりました。植治はこの石を多くの庭に用いており、平安神宮では東神苑に多く使われています。
しかし、東神苑で目立つものといえばなんといっても橋殿である泰平閣でしょう。宇治平等院の鳳凰堂を連想させるような優美なデザインを眺めるにしても、周囲から一段高くなった泰平閣の中から園内や東山を望むにしても、東神苑の要となっています。
さらに、神苑内には多くの桜とともに、松やモミジ、サルスベリといった高木とともに、西神苑にはショウブが植えられ、花や新緑を愉しむことができます。昭和40年代に作庭された南神苑の桜が有名ですが、東神苑の池沿いに植えられた枝垂れ桜も、水面に花を映した姿はなかなか見応えがあります。
こうして作庭された平安神宮神苑は、作庭時期が異なる部分があるにもかかわらず植治の手腕によって一つの庭として作り上げられ、現在に至っています。伝統的な日本庭園の様式でありながら、西洋式庭園の雰囲気をも盛り込み、さらには近代庭園の萌芽となった神苑に植えられた木々や花々、そして東山を背景に広がる風景は、今も訪れる人々の目を愉しませてくれます。

特集 京の茶室 4「町衆の好み」

室町時代から桃山時代にかけて、堺の町衆たちが南蛮貿易などによってその影響力を増大させました。そして、茶の湯においては武野紹鷗や千利休ら堺出身の彼らの活躍によって、現在の茶室の原形が造り上げられます。その形式は古田織部や小堀遠州ら桃山から江戸初期の武家茶人たちによって受け継がれ、さらに洗練されていきました。一方、公家たちもこの新しい動きに敏感で、雅な意識を侘茶に融合させた形態をつくりあげました。もちろんそこには武家や商人ら、他の文化人たちの関わりもあります。江戸初期のこの総合的な動きを寛永文化と言います。そして千利休の孫である千宗旦によって利休の佗茶が受け継がれ、さらに佗を深化させた茶室を定着させました。江戸初期から中期にかけての町衆たちも当時の千家の茶の影響を受け、あるいは当時の武将や公家たち文化人との交流を深めます。茶の湯文化の発展には、いつも彼らが大きな役割を果たしてきました。
今回は江戸初期から中期にかけて、町衆たちに関わりのある茶室をみていきたいと思います。

西翁院 澱看席

澱看席外観

澱看席外観 躙口前には屋根が差し掛けられ、茶室は亀腹の上に乗った形式

澱看席よどみのせき金戒光明寺こんかいこうみょうじの塔頭、西翁院さいおういんにあります。「澱看」の名称は近代になってから付けられたものともいわれ、当初、紫雲庵、反古庵などと呼ばれていました。好みは藤村庸軒ようけんです。庸軒は、千家とつながりの深かった久田家初代の久田宗栄の次男で、呉服商十二屋の藤村家に養子に入ったとされます(父の代に改姓したとの説もあり)。はじめは薮内紹智に茶の湯を学び、ついで小堀遠州からも学んだともいいます。のちに千宗旦のもとで台子伝授を許され宗旦四天王と呼ばれるようになった町衆の茶人です。
茶室は西翁院の本堂の西に付加されており、ゆかの高い本堂と高さを合わせるため、亀腹かめばらの形式を取り入れています。亀腹は建物の足元に盛土をして漆喰でかためたもので、土中からの湿気を防ぐ意味があります。一般には寺社などに用いられる手法ですが、茶室に採用されることは極めて珍しいことです。屋根は柿葺こけらぶきで、天井もその流れに合わせて化粧屋根裏天井となっています。躙口の前面には切妻造の屋根を差し掛け、その下に手水鉢が設置されています。

澱看席内観

澱看席内観 点前座と客座を道安囲あるいは宗貞囲と呼ばれる壁で仕切る 写真/神崎順一 撮影

内部は三畳敷で、炉が向切本勝手、そして下座に構えられた床の間は室床むろどこと呼ばれる隅の柱を塗回した形式で、板敷きで墨跡窓ぼくせきまどを開けています。床柱は杉、床框とこがまちは杉丸太二つ割りで入節を見せて、落掛おとしがけも杉で下部が面皮めんかわとなり、上部の小壁に華鬘けまん(仏殿の内陣を荘厳する仏具)形の額を掛けています。落掛の下部が面皮であるのは、小径木であることを表現したもので、室床や床框の意匠などと合わせて、茶室の素朴さを象徴する方法です。

客座から点前座

客座から点前座 天井が片流の化粧屋根裏天井、床の間は室床

三畳のこの座敷の形式は宗貞座敷と言われるもので、点前座が壁で囲われています。宗貞とは笹屋宗貞のことで、堺の茶人で、藤村庸軒の門人とも古田織部に師事した人とも伝えられています。この点前座と客座との間に建てられた壁を道安囲あるいは宗貞囲とも呼び(それぞれの言葉は座敷そのもののことを言う場合もあります)、亭主の空間を小さく表現し、次の間のように見せて謙虚な気持ちを表現しています。つまり「もてなし」の構成です。この仕切壁は点前座の大半を客座から隠し、中柱が建てられ、火灯形の給仕口を開けています。点茶の時にはこれを開けて亭主の姿を客に見せるようにします。なお、点前座勝手付(南側)の窓が「淀」見窓、風炉先(西側)が「嵯峨」見窓、とも呼ばれています。いずれも近代になっての命名だと考えられています。

点前座

点前座 炉は向切、正面の窓が嵯峨見窓、左が澱見窓と呼ばれる


高台寺 鬼瓦席

鬼瓦席外観

鬼瓦席外観 瓦葺屋根に杉皮の庇を廻し、出入口は貴人口の形式 写真/神崎順一 撮影

鬼瓦席は江戸初期の豪商・灰屋紹益はいやじょうえきの遺愛の茶室で、その邸内にあったものと伝えられています。その紹益は本名を佐野重孝といい、父は本阿弥光悦の甥の光益。当時灰屋と呼ばれた佐野紹由の養子となりました。屋号は紺染めに用いる灰を扱うことからの名称です。紹益は晩年の本阿弥光悦に書画や花を学び、飛鳥井雅章や松花堂昭乗らとも交流があり、和歌や書道、そして茶の湯に造詣が深く「にぎはひ草」という随筆を著すほどの文化人でもありました。一方で六条柳町(のちに島原に移る)の遊里の名妓吉野太夫を近衛信尋と争って身請けしたことでも知られています。

鬼瓦席床正面

鬼瓦席床正面 客座側に付書院が付き、点前座の天井は落天井となって、亭主の謙虚な思いを表現している

この茶室は明治41年に道具商の土橋嘉兵衛が譲り受け、高台寺に移築されたと伝えられています。屋根の丸額に楽家四代の一入(いちにゅう)作の鬼瓦が掛けてあったことからの名称ですが、現在は点前座脇の壁面に移されています。外観は切妻造の瓦葺屋根の二方に杉皮の庇を廻した形式で、入母屋造風になっています。東側の土間庇には三枚の障子が建てられ、貴人口の形式となっており、南側には躙口があけられています。内部は四畳半で、床の間と付書院を備えています。

天井は細い杉丸太を竿縁にした平天井で、点前座の上部を蒲の落天井として、亭主の空間に謙虚さを表現しています。また点前座の風炉先(前方)の柱は楊枝柱ようじばしらとして上部だけを見せ、その下部を土壁の塗回しで見えないようにした手法です。楊枝柱は裏千家の四畳半茶室の又隠などに見られる手法で、曲がった柱、すなわち雑木ざつぼくを使うという素朴さの表現とも、あるいは空間の大きさを不明瞭にして無限を表現したものであるとも考えられます。
この茶室は千宗旦の侘びた手法を受け継ぐものの、付書院や貴人口の形式を取り入れるなど町人貴族的な雰囲気を表現したものです。

高台寺 遺芳庵

遺芳庵外観

遺芳庵外観 茅葺屋根の下が茶室
写真/神崎順一 撮影

遺芳庵は別名吉野窓の席とも言われ、吉野大夫の好みだと伝えられています。吉野大夫は文芸に優れた人物であり、26歳の時、時の豪商灰屋紹益が身請けすることになります。しかしその幸福な生活も長くはなく、38歳にして早世しますが、先立った吉野を偲んで紹益がつくったのがこの茶室だと伝えられています。もっとも、後世の人が紹益と吉野の物語より、それを偲んでつくったものという説もあります。吉野の名は名物裂の吉野間道かんどうに残り、それは灰屋紹益が吉野に贈ったきれからの命名であると伝えられています。またこの茶室に採用されている大きな円窓も吉野が好んだと伝えられていることから吉野窓と呼ばれています。

遺芳庵大円窓

遺芳庵大円窓 客座にあけられ、内側に障子が建つ

遺芳庵は、元は灰屋紹益の屋敷にあったものですが、高台寺の塔頭岡林院こうりんいんに移築され、さらに鬼瓦席の近くに移築されたものです。外観は宝形造茅葺の三角の屋根をもち、正方形に近い壁面に大きな円窓があけられ、丸と三角そして四角が表現されたユニークな形をしています。室内は一畳台目で、向板が嵌められ二畳の大きさとなっています。炉は向切逆勝手、床の間は向板の壁に釘を打ち、掛物が掛けられるようにした壁床の形式です。客の出入口として躙口、亭主の出入口として開き戸形式の茶道口が設けられています。天井は竹簀張りで、炉の上には杉丸太の横木に蛭釘ひるくぎが取り付けられ、釜を釣ることができるように工夫されています。客座側の大円窓、いわゆる吉野窓の内側には障子が建てられていますが、あけることを考えたものではなく、障子に映る円形の光に吉野大夫を偲んだ形式だとも考えられます。

仁和寺 遼廓亭

遼廓亭外観

遼廓亭外観 躙口前が土間庇の形式
写真/仁和寺 所蔵

仁和寺の遼廓亭りょうかくていは尾形光琳こうりんの好みで、織田有楽うらく如庵じょあんを写した茶室として知られています。もっとも建築としてはそれを含め、複数の室からなるものです。光琳は京都の呉服商「雁金屋」の当主尾形宗謙の次男として生まれました。のちに画家そして工芸家として活躍しますが、京都の富裕な町衆がその顧客であったといいます。この建物は仁和寺門前の何似かじ家にあったものが移築されたものです。この何似家の邸宅は尾形光琳が建てたともので、その弟尾形乾山けんざんの住まいだったと伝えられています。
さて遼廓亭は、二方に縁を廻らせた主室の四畳半と次の間の四畳半、二畳半台目の如庵写しで我前庵がぜんあんとも呼ばれる茶室、そして水屋、控の間、勝手などが付属した建物です。主室の四畳半と次の間の四畳半の間には建具がなくて、天井の高さと平面的にずらした室の配置によって区分しています。またこの室は書院ということもできますが、草庵の要素を十分に取り入れた形式となったもので、藁苆わらすさがちりばめられた土壁に、四尺幅の蹴込床けこみどこを入れ、栗のナグリの床柱が立ちます。その床脇には違棚と地袋が備わります。

我前庵床の間と茶道口 如庵写し、三角の鱗板が納まる

我前庵床の間と茶道口 如庵写し、三角の鱗板が納まる

如庵写しの席には、本歌と同じく躙口前に壁を建て、土間庇としています。しかし刀掛が設けられ、袖壁に設けられた下地窓が、如庵の円窓に対してここでは四角形です。内部は点前座を少し下げた扱いとして、その前に半畳と火灯口のあけられた板が立ち上がります。謙虚さを表現し、かつ点前座に光を届ける工夫です。一方で客座との食い違い部分には三角形のうろこ板を入れて動線の確保と意匠的なおもしろさを表現しています。床の間は苆壁すさかべで素朴さを表現する一方で、塗りのかまちを設けて、格式を表現しています。客を「もてなす」形式です。ただ竹を詰め打ちした有楽窓は設けておらず、通常の連子窓の形式となっています。この茶室は本歌と比較して、全体に細い材料を使用し、より洗練された表現となっています。
主室の書院などと併せ、江戸中期の町衆たちの風趣を楽しむ形態が良く伝えられたものだとみることができるでしょう。