文化財修理現場の現場から 「保存の為の模写事業 ~二条城二の丸御殿模写~」
はじめに
安土桃山時代から江戸初期にかけて戦国大名の活躍時には日本国中膨大な数の城閣が造営されました。二条城は天守閣、本丸(現在の本丸は御所より明治期に移築されたもの)、他の御殿は消失しましたが幸いなことに、二の丸御殿は寛永創建時の建造物です。御殿建築と内部の荘厳が今日にその有り姿を伝えているのは二の丸御殿が唯一の遺構です。
二条城障壁画は、1626年(寛永3年)徳川家光による創建時に作画されたもので、2000点以上の障壁画が現在も御殿を荘厳しております。
400年の時間を経た障壁画は紙の劣化、顔料の剥落、建具の損傷など多くの問題を抱えており、オリジナル障壁画を良好な環境へ移動し保存する必要がありました。しかし、オリジナル障壁画が収蔵されますと、御殿内は柱だけの空虚な空間となり、徳川、江戸初期の文化を伝える二の丸御殿の壮麗さは失われてしまいます。そこで、障壁画模写を作成し、オリジナルと嵌め替えていくというプロジェクトが京都市文化市民局の事業として1972年(昭和47年)に立ち上がりました。二条城二の丸御殿障壁画模写事業というこの事業は現在も継続中で、私は1979年(昭和54年)よりこの事業に関わっております。
文化財の大規模な模写事業として有名な物では、法隆寺金堂壁画模写事業が最古です。この事業には私の祖父と父が携わっておりました。これも建物から分離することができない壁画を模写という形で残し、別の場所にて保管するという文化財保存事業でした。残念ながら、この事業の際に火災に見舞われるという悲劇が起こりました。しかし、火災時には模写は完成しており堂外に有りましたので、壁画模写は消失を免れ、今日我々に白鳳の壁画を伝えてくれております。
このように建造物と一体になった壁画、障壁画の資料保存の為に、模写は大切な役割を果たしております。
模写の方法

図1 御殿内にてトレース作業

図2 オリジナル画 金箔に損傷の跡が残る

図3 復原模写画 損傷個所を削除

図4 監修者との協議 模写室内
法隆寺壁画模写より二条城模写が始まる迄はすべて現状模写という技法が使われておりました。現状模写はオリジナル絵画の情報をすべて絵で写し取るという手法で、絵以外の壁画のシミや汚れまたは板に描かれているものは木目も寸分たがわず丹念に写し取っていきます。これは漆喰に描かれた壁画も板に描かれた扉絵もすべて和紙に薄塗り絵の具を用いて描いていくのです。二条城障壁画模写も事業当初は従来通りの現状模写が行われましたが、膨大な障壁画の模写には、膨大な時間が必要であり、金箔の損傷状況をどのように写し取るかという難問もありました。
そこで復原模写という新しい模写方法が提案されました。復原模写はオリジナル画と同素材、同技法を用いる事が重要なポイントで、作画された時のような鮮やかな絵画を用い表現します。しかし二の丸御殿に嵌め替えることを目的とした模写には創建時の鮮やかな色調は御殿の雰囲気を乱す可能性があります。そこで形、表現方法は復原し、色調は御殿内の400年の時代色に合わせるという方針が当時の監督者であった美術史家土居次義氏によって提案され、古色復原模写という技法がこの時より確立されました。この表現方法を今日まで42年間続けております。(図1)
現存する二の丸御殿障壁画は狩野派による作品群で、探幽、尚信、甚之丞などが主な筆者ですが、400年の時間を経て度重なる修理、補筆が施されております。復原模写の際には出来る限り当初の姿に戻すという事を心掛けており、補筆、補紙の見極めが重要であり、それを削除した時にオリジナルにどのように近づけた復原が出来るかという事が一番難しい作業となります。(図2・3)これらの判断には現在の監修者の大阪大学名誉教授武田恒夫氏と共に協議を経て、復原を行っていきます。(図4)黒書院、大広間、式台の間、白書院、と進み、現在は遠侍の障壁画に取り組んでおります
私共はこの作業を行うために二条城敷地内に模写室を構えております。模写事業に携わるメンバーも模写室開始時からは一世代を超えつつあります。開始当初、「ゆっくり進めることにより人的育成をしたい」と、川面稜一(父)が言っておりました。今日途絶えてしまっている狩野派古典技法を私共は模写を通して体得することができました。そのことが一定の評価を得て、模写室メンバーが美術大学において古典技法を後進に伝えております。
模写に用いる用具

図5 天然岩絵の具 群青とその岩石

図6 天然岩緑青
細かい粒子(白録)より酸化させた焼緑青まで

図7 色調の参考にする引き手を外した跡
用いる素材は同質、同素材が基本です。顔料は当時と同種の物を使用します。天然群青、緑青をはじめとする天然岩絵の具が中心です。(図5・6)色調は引き手跡などから看取できる色調をよりどころに調整をいたします。(図7)金箔は当時の大きさの三寸箔を特別打ってもらい使用しています。水墨画の際は近い墨色を探し、奈良の古墨を使用しました。オリジナルの紙は間以合紙と呼ばれる雁皮を主繊維とし兵庫県名塩の泥を混入した横三尺一~三寸縦一尺二~三寸の紙が使用されています。しかし現在では名塩間以合紙の製造が縮小し、二条城障壁画のすべての量は製造できないことから、紙肌の近い白麻紙を使用しています。
古典技法を追求すると、現在の画材では表現できない事にぶつかります。そのような場合には、筆や紙や顔料を作っている方々と相談しながら当時の道具、材料への研究も進めることができ、実際に道具の復原に至る場合もあります。
黒書院杉戸芙蓉図における本歌取り

図8 黒書院花篭図杉戸 オリジナル

図9 紅白芙蓉図 李迪
東京国立博物館所蔵
Image : TNM Image Archives

図10 紅白芙蓉図 李迪
東京国立博物館所蔵
Image : TNM Image Archives

図11 黒書院花篭図 杉戸 模写
長い模写事業を行っている中で、模写を通して発見に出会う事が時々あります。その一例を紹介いたします。
黒書院杉戸花篭図芙蓉(狩野尚信筆)復原の際(図8)、芙蓉の表現の参考として芙蓉図の名品、国宝《紅白芙蓉図》(李迪筆)を参考にいたしました。(図9・10)その際、黒書院の花篭芙蓉図と紅白芙蓉図の形状が非常に似ている事に気付き、黒書院芙蓉をトレースし紅白芙蓉図の上に縮小し重ねてみますと見事に一致することが分かりました。(図11)
国宝《紅白芙蓉図》は南宋の画家李迪、1197年(慶元3年)の筆によるもので、現在は国宝となり東京国立博物館の所蔵となっております。二条城障壁画が描かれた1626年(寛永3年)ころにすでに狩野派は李迪芙蓉図を名品として認識し、参考作品としての縮図もしくは原本を所有していたと考えられます。多少の線の不一致はありますが、オリジナルをきちっと模写し、粉本として狩野派が所有していた事を推測することができます。
狩野派の粉本主義は有名なところですが、狩野探幽による倣古帖(絵師が自己流筆跡による諸名画の解釈を行ったもの)の中に「第十九臨李迪 芙蓉」という項目がある事註1は見逃せない事実です。これらの事実より、黒書院筆者 尚信(探幽の弟)もこの倣古帖を利用していたのでしょう。
狩野派の粉本主義を形成した古画収集はどのように行われたのでしょうか。それをヒントにする資料がここにあります。室町時代、狩野正信が東山殿の義政持仏堂の障子絵作成にあたり馬遠、李龍眠という李迪同様の南宋画家の筆様を求めて原画を持参させた事が記録に残っています。註2正信が将軍に直結し得た人物であるからこそこのような、制作手段が可能になったのです。この貴重な原画熟覧という機会を捉え臨模し、粉本として収集し、後世に伝えて行ったのでしょう。
またこの李迪の《紅白芙蓉図》はもう一本の模写本が確認されています。大徳寺真珠庵に伝わる曽我宋誉(生没年不詳 室町時代)筆《芙蓉図団扇形》です。この作品も李迪《紅白芙蓉図》に酷似しています。このような酷似は李迪芙蓉図を敷き写し(オリジナル画を下に置き上からトレースする模写技法)した可能性が高く、異なる点は芙蓉蕾にキリギリスが留まっている事です。
李迪《紅白芙蓉図》は現在の美術大学の古画研究の授業でも模写したい作品のトップ3には必ず入る逸品です。このように室町時代の将軍の感性を刺激し、狩野派の粉本として珍重され、現代の私共も芙蓉図の最高峰と認める、1000年近く変わらない評価を維持し続ける李迪の《紅白芙蓉図》の偉大さと、芙蓉図に触発される日本人の感性の連綿とした流れに居合わせた事に気付いたことは大きな発見であり喜びでした。
古画の逸品をさりげなく取り入れる事を本歌取りと称し、古来伝統的に行われております。これは逸品の模写や粉本によってオリジナルを評価し、次の世代への作品づくりへと昇華する模写の効用でしょう。
おわりに

図12 嵌め替え前の大広間四の間
写真提供:元離宮二条城事務所、撮影:福永一夫

図13 模写嵌め替え後の大広間四の間
写真提供:元離宮二条城事務所、撮影:福永一夫

図14 二条城障壁画
<左>オリジナル <右>模写

図15オリジナル障壁画が収蔵されている収蔵庫
写真提供:元離宮二条城事務所
二条城二の丸御殿の模写事業は400年の歳月を経て儚く消え入りそうになっている絵画を復原することにより、そこに秘められた狩野派の感性、技法、用具、材料も蘇らせる事が可能になり、現代人の感性を刺激してくれております。
模写完成までには、まだ数十年必要です。この貴重な時間を障壁画の保存は言うまでもなく人的育成にも費やしたいと思っております。(参考図版12・13・14・15)
参考文献
註1 『狩野派障壁画の研究』 武田恒夫著 吉川弘文館 第6章 和様化の帰結
註2 『日本絵画の見方』 榊原悟著 角川学芸出版 第4章 贋作をめぐって
特集 京の茶室 3「公家の好み」
譲位した後水尾上皇は、寛永(1624~44)の末頃から、洛北において山荘の造営に着手しました。長谷、岩倉、幡枝など、比叡山を見わたす山里に次々と別業を築いていきました。そして上皇が最後に行き着いたのは比叡山の懐に抱かれた修学院の地です。一方、八条宮智仁親王は桂に別業を造り、その子智忠親王は御殿を拡張し、また養子として八条宮を継承した後水尾院の第11皇子である穏仁親王が、苑内の茶屋を整備しました。その中の茅葺の一屋には茶室を組み込みました。その松琴亭と名付けられた茶屋は、素朴な田舎家の外観をもちますが、内部には紺と白の市松模様をあしらった大胆な意匠が床の間や襖障子に施されています。
修学院離宮と桂離宮、日本建築を代表する二つの離宮は江戸時代のはじめに造られたものでした。この時代、公家たちにおいては、現代風にいえば田舎暮らしへのあこがれのような意識が強くありました。京都郊外の山里にあこがれをもち、あるいは田舎家風の建物を建てました。しかしその一方、きらびやかな、あるいは斬新なデザインを施すことも時にはありました。前回みた小堀遠州らのデザインと、公家の環境からくる考え方とがあいまった建物の形です。それは江戸期のみならず、近代においても輝きを失わないデザインであり、じつはモダニズム建築へも少なからぬ影響を与えたものとして位置づけることができるのです。今回は江戸期の公家たちの茶室を見ていきたいと思います。
伏見稲荷大社 御茶屋

御茶屋の屋根の構成や起こりのある檜皮葺の屋根が、複雑に組み合わされて美しい

木連れ格子に懸魚が取り付けられている
写真/神崎順一 撮影
伏見稲荷大社には、後水尾院より拝領したという伝えのある御茶屋があります。院に仕えていた羽倉延次が授かり、しばらく羽倉家に伝えられてきたものが、明治21年、大社の禰宜であった竹良豊に譲られたものです。
屋根は入母屋造桧皮葺に木連れ格子と懸魚が付けられた格調高いものです。床、棚、付書院を備えた七畳敷きの一の間と八畳の次の間が東西に並びます。北側には板敷の広縁と長四畳の縁座敷が取り付き、南側には板敷の縁が設けられています。七畳の座敷は、出床形式の床の間に黒塗りの床框を備え、付書院には端正な輪郭の火燈窓があけられて、室内には長押を巡らし釘隠しを打ち、格調高い書院造の座敷となっています。一方で、床柱やその相手柱には丸太が選択され、素朴さや和らいだ雰囲気をかもしだしています。
茶湯の施設としてこの建物を見た場合、床脇の一畳が茶立所としての意味をもつと考えられます。現在ではその隣の畳が点前座となっていますが、周囲の意匠から、移築が行われたとき、改められたものではないかと考えられます。亭主の謙虚さを表現した落天井があり、さらに床の間との境の壁は下部を吹き抜いた形式です。その勝手付(壁側)には違棚が設けられています。天袋を備え、下部は蹴込形式の地板が敷かれ、棚そのものはやや低く取り付けられており、亭主が利用するために考えられた高さではないかとも推察されます。

七畳の一の間 正面右が床の間、左の床脇には違棚と袋戸棚を備え、部屋境には天井までの菱格子の欄間
七畳座敷の北側は、明障子が建てられ、その上に欄間が天井一杯までの高さで取られていますが、珍しい手法です。ただ、同じ形式は桂離宮古書院二の間の欄間にもみられ、そこでは、月見台を通して庭園へ緩やかに広がる組み立てとなっています。ここでも広縁を通して庭園につながります。次の間との境の欄間も天井まであけられ、菱格子が嵌められています。次の間の八畳には縁座敷が設けられていますが、後水尾院の弟の一条恵観が西賀茂に造った恵観山荘(現在は鎌倉に移築)にも通ずるものです。
建物の内外を緩やかに連続させた意匠は、寝殿造以来の公家の建築の特徴で、本来閉鎖的である茶室を構成する意匠を組み込んで、新たな数寄屋建築を生みだす大きな原動力となりました。近代になって世界中から視線が注がれた桂離宮などと主に共に、この御茶屋はその初期のものとして位置付けることができます。
曼殊院 書院と茶室

黄昏の間 左は曼殊院棚、右の上段には床の間と付書院が取り付く 写真/神崎順一 撮影
天台宗延暦寺に属する曼殊院は、中世以来、皇族や摂関家の子弟が住する門跡寺院としての性格が定着しました。第29世の良尚法親王の代に、幕府の命により現在の一乗寺にその場所を移しました。良尚法親王の父は桂離宮を創設した八条宮智仁親王、そしてその兄は、桂離宮を引き継いで整備を行った智忠親王でした。そのような状況のもと、建築されたのが現在の曼殊院書院です。
曼殊院の小書院は、上段をもつ黄昏の間、八畳の富士の間、置床を設けた二畳の間、そして三畳台目の茶室と水屋などによって構成されています。東と南には低い高欄の付いた縁が廻り、開放的な構成となっています。黄昏の間は七畳敷きで、上段には床の間と火燈窓のある付書院が配され、上段脇にはいわゆる曼殊院棚を備えます。室内には長押が廻され、床の間や棚の壁面は張付壁にするなど、書院造りの構えですが、一方で丸太の使用や凝った棚の装飾など数寄的な側面も見せています。曼殊院棚は多種類の木材を組み合わせ、厨子棚や袋棚を組み込み、縦横ランダムに3分割された意匠はユニークなものです。
二畳の間は黄昏の間を主室とする茶立所としての意味合いがあると考えられます。それは室町時代以来の伝統の「殿中の茶」を伝えたもので、近侍の者が脇の部屋で茶を点て、主室へ運んだ形式です。もっとも独立した茶室としてみた場合、変則ですが向切本勝手下座床となり、床脇の少し低い襖障子が茶道口となります。点前座脇には低く引違の小襖が建てられていますが洞庫としての役割です。床の間は置床が固定された形式で、楓の地板に柿の蹴込板を入れた押板状のものに、逆蓮の擬宝珠を付けた親柱と高欄が取り付いたものです。

三畳台目茶室 左の間の脇に給仕口と茶道室が間をあけて並ぶ
三畳台目は八窓席あるいは八窓軒とも呼ばれ、八つの窓をもつ茶室です。下座に構えた床の間には、塗りの床框と赤松皮付きの床柱、相手柱として櫟の皮付きの柱が立てられています。床脇の壁面には火灯口形式の給仕口があけられ、茶道口は方立形式です。点前座は台目構えの形式で、緩い曲がりをもつ桜の皮付きの中柱で客座と仕切られており、色紙窓と風炉先窓をあけています。袖壁の内側には二重棚が釣られていますが、上棚が大きく下部が客座側から見えない雲雀棚の形式です。天井は、一般には点前座の上が落天井となることも多いのですが、ここでは床前の客座から平天井がそのままつながっています。藪内家の燕庵にも同じ構成の天井がみられます。床正面には躙口があけられ、その上部の天井は化粧屋根裏の形式で、突上窓をあけ、垂木には多種類の雑木が使用されています。躙口側の壁面には大きさ形の違った三つの窓をあけています。上下二段の窓は、上部が横長の下地窓、下部が連子窓となっており、小堀遠州が好んだ形式です。窓の数は多いのですが、一方で苆壁の黒い壁面も多く、室内は暗く感じます。それは黒木、すなわち皮付きの木材が多用されており、その手法は、後水尾院好みの水無瀬神宮の燈心亭などと似ています。さりげない形態に公家の好みが組み込まれています。

三畳台目茶室 左奥が点前座、右側の壁面には三つの窓と化粧屋根裏に突上窓が設けられている
仁和寺 飛濤亭

飛濤亭外観 茅葺屋根に柿の庇が取り付く 写真/仁和寺所蔵
仁和寺は真言宗の寺院で、光孝天皇の勅願によって仁和2年(886)に建て始められ、その遺志を継いだ宇多天皇の仁和4年(888)に落成しました。以後皇室との深いつながりをもち、門跡寺院の筆頭としての地位が定着しました。応仁の乱以後、荒廃していましたが、後水尾院の兄、第21世覚深法親王の時代、徳川家光の援助を受けて堂宇が再建されました。
仁和寺にはよく知られた二つの茶室があります。飛濤亭と遼廓亭です。ここでは、光格天皇遺愛の席として伝えられている飛濤亭について見ていきましょう。寛政(1789~1801)の頃、光格帝の兄である深仁法親王が門跡であった時代、行幸のときに帝自らの好みで建てられたものであるといいます。
建物は、入母屋造の茅葺の屋根に、杮葺の庇を二方に廻して土間庇を形成し、足元は漆喰のたたきに小石を散らした意匠となっています。間取りは、洞床をもつ四畳半の席と、水屋、台所が南北に並んでいます。土間庇に面した茶室の入口は、南側に腰障子が建てられた貴人口が設けられ、脇の壁には円窓の下地窓があけられ、その横には袖壁と刀掛が備えられています。なお西側にも明障子が建てられていますが、こちらには沓脱石がなく、明かり採りの開口部です。

飛濤亭天井 上昇感のある化粧屋根裏天井

飛濤亭床の間 右の壁には円窓の下地窓があけられる
内部では、框や落掛を省いた踏込床形式とした洞床が注目されます。床柱は栗でナグリ目が施され、大変侘びた表情を見せています。天井もユニークな構成です。床の間の前を網代天井、点前座の上部を蒲の落天井として、残りの部分に、隅木を架けて矩折れにし、折り紙を対角線で折ったような化粧屋根裏天井としています。通常、化粧屋根裏天井は、侘びた素朴な表現となりますが、ここでは二畳の大きさをもち、高くそびえ、動的な印象を与えます。また壁は、苆を散らした土壁で、ひなびた表現となっています。このように、この席全体は侘びの意匠で構成されていますが、大きく設けられた腰障子の開口部と併せ、大変開放的な空間となっています。侘の要素を明るく軽やかに表現した公家好みの茶室の特徴が、ここに凝縮されています。
文化財修理現場の現場から 「文化財建造物の保存修復 ―建仁寺開山堂楼門修理工事から」
はじめに

近世中期の妙光寺の寺観(都名所図会)
建仁寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山で、山号を東山と号する。建仁2年(1202)の創建で、開山は日本に禅宗を招来した明庵栄西である。
開山堂は古くは興禅護国院といい、健保3年(1215)示寂の開山栄西禅師の塔院で、建仁寺の三門の東方の地形が一段高くなった敷地に所在している。その位置は「東山往古之図」(南北朝期 1365年以降)にも記されているように、創設以来変わっていないものと考えられる。しかしながら、護国院は度々火災に見舞われ、天文21年(1552)の兵火では、三門・仏殿・法堂・方丈をはじめとする伽藍諸堂・塔頭とともに焼亡してしまった。その後、慶長年間から元和元年(1615)に客殿が建てられるまでの間、順次修復整備されていったとみられる。護国院の建物群は、その後幕末・明治初期には壊廃が著しかったと思われ、明治17年に開山塔の建て替えが行われ、翌18年には開山塔整備に合わせて妙心寺塔頭玉龍院の客殿(方丈)を移築して客殿としている。経堂は、旧開山堂の昭堂の古材を転用して、再建された可能性が大きい。楼門は、「宝陀閣(ほうだかく)」といい、同年に鳴滝の妙光寺の山門を移築したものである。このように護国院の建物の半分は移築によるものであるが、他から建物を移して再用することは中・近世にはよくあることであった。
建物の概要

開山堂楼門正面

南東面
〈構造形式〉
概要
楼門/三間一戸二階二重門 入母屋造 本瓦葺 西面
山廊/各桁行一間 梁間一間 切妻造 桟瓦葺
楼門:一階は桁行三間、梁間二間、正面中央間に桟唐戸を建て込み、両脇間に花頭窓を設け、両側面は土塗壁、背面は三間とも開放としている。二階は桁行三間、梁間一間、正面中央間には方立柱を立て桟唐戸、両脇間に嵌殺し板戸を建て込んでいる。両側面は方立柱を立て中央に桟唐戸を建て込み、背面は中央間を土塗壁とし、両脇間には嵌殺し板戸を建て込んでいる。周囲には縁を廻らし高欄を設け、側面中央部に階段登口を構えている。柱は総て丸柱、軒は一軒疎垂木で、一階床は四半瓦敷き、二階室内は拭板張りとしている。
山廊:桁行梁間とも一間、正面は土塗壁とし、背面には花頭窓を設けている。各々楼門側には開放の階段登口を設け、他方には板戸を建て込んでいる。柱は面取り方柱、軒は一軒疎垂木で、室内は土間床、軒内土間は瓦敷きとしている。
修理工事の概要および経過
開山堂楼門は、妙光寺の山門として寛文6年(1666)頃建立された(正覚山妙光禅寺紀年集)と考えられるが、修理等その後については詳らかでなく、明治18年(1885)から同20年(1887)にかけて建仁寺開山堂の山門として現在の場所に移築され、以来部分的な修理が行われてきた。
修理前の楼門は、移築場所が盛土による造成地であったため立地条件が非常に悪く、建物の基礎となる地盤は軟弱で、柱礎石は建物の荷重に耐えがたく著しく不同沈下を生じ、軸部の傾斜も甚だしく、全体に大きく西方に傾いていた。また、軒廻りは総じて軒先の垂下が甚だしく、腐朽も著しかった。屋根は全般的に耐用年限に達しており、瓦の緩みや割れが多く、雨漏りによる野地の腐朽も生じていた。
このような状況から、建仁寺では修理方針を半解体修理として開山堂楼門の保存修理工事を実施することにした。
楼門は地盤の不同沈下に伴って傾斜していてため、屋根及び野地、小屋組、床、縁廻り、壁を一旦解体し、軸部をジャッキアップして、地盤と基礎の補強を行った後に礎石から据え直し、軸部の建て起しを行い、組み直した。二階床組は一部構造補強のために部材の改変を行ったが、その他の古材は構造上支障のない限り再用につとめ、再用できなかった古材においても、建物の変遷を知る上で重要な材は二階床下、小屋裏に保存し、将来の参考資料とした。
工期は当初平成23年3月から平成24年8月までの予定で着手したが、軒廻りから小屋組にかけての朽損が予想外に著しく、古材の繕いや補足材の加工手間が増え、工期を5ヶ月半延長し、平成25年1月17日に落慶した。
主な修理工事の実施内容

二階小屋組

二階床組解体中

二階床組補強
今回の修理工事の主なものとしては、朽損木部の補修のほか基礎地盤の補強、一階軒先の垂下に対する構造補強、屋根瓦の葺き替えがあげられる。
基礎地盤の補強
基礎地業の方針を決定するため、スウェーデン式サウンディング試験を6か所実施したところ、現状地盤より3.75m付近まで急自沈、空隙部自沈層(軟弱層)が確認された。基礎地盤への対策工法を検討するに際しては、
- 施工機械が小型でかつ上空制限があっても施工可能であること。
- 側柱通りの軒内葛石以内で対策工が施工できること。
- 近接する既存石垣に極力影響を及ぼさないこと。
以上の制限を考慮して検討した結果、薬液注入工法を採用して強化、安定を図ることとした。
注入工法は二重管ストレーナー工法単層式で、使用薬液は非水ガラス系懸濁型薬液(主剤:ポルトラントセメント、硬化剤:サンコーバードAQ2-10秒)とし、注入計画深度は基礎底から2.0mとした。注入孔の間隔は約90㎝で、注入作業は54か所を7日間かけて実施した。
地盤改良工事施工後1週間の養生期間をおいて、地耐力を確認するため地盤の平板載荷試験を行った。本載荷試験での測定結果から得られた長期許容支持力は61.97kN/㎡で、概算により算定した長期設計支持力60.0kN/㎡より上回っていることが確認された。
基礎は、その上に厚さ25cmの鉄筋コンクリートのべた基礎を造り、既存の柱礎石を不陸なきよう据え付けた。
一階軒先の垂下に対する構造補強
一階の屋根は軒桁から外の荷重が大きく、桔木で軒先の荷重を支える構造になっているものの構造的なバランスが悪く、また、軒桁にかかる梁は径が末口18cmで、二階床梁も15cm角と部材断面が小さいことから、桔木尻を抑え込むには不十分な状況であった。そのため一階の軒先は大きく垂下し、桔木尻の跳ね上がりで二階の床梁は折損し、床板は中央が大きくムクリ上がった状態となり、著しい歪みによって生じた化粧垂木の折損もみられた。
補強方法については、既存の床組を残しながら施工可能な工法ということで検討を重ねたが、床下の空間が狭く補強材を追加して納める余裕がないうえに半解体修理という制約もあって、条件をすべて満たす最良の工法を見出すことはできなかった。今回の修理では床下の見え隠れ部分で構造補強を行い、二階楼内に補強材を見せないことに重きを置くこととして、床梁を大断面の部材に変更して新材にて取り替え、かつ、補強金物等により床組を一体化して桔木尻を抑える込む工法を選択して工事を実施した。
屋根瓦葺き替え

二階大東南鬼瓦
既存の屋根は全体に破損が著しく、楼門が移築であることや繰り返し行われた修理の結果多くの種類の瓦が混在することとなり、軒丸瓦および掛丸瓦には43種類、軒唐草および掛唐草瓦には31種類もの瓦が用いられていることが判った。楼門では総数14個の鬼瓦が用いられ、割れや欠損など傷みの著しいものも多かったが、大棟、降棟、隅棟の鬼瓦すべてに同作人のものと思われる古瓦が残されており、降棟および隅棟鬼瓦の肩には「深草瓦師長兵衛」と箆書きが記されていた。しかしながら、大棟鬼瓦にはいずれも刻銘はなく、作られた年代を記すものはみられなかった。
今回の修理では鬼瓦以外の瓦はすべて新調とし、それらの瓦の製作にあたっては当初瓦と思われるものに倣った。鬼瓦については可能なものは補修して再用したが、降棟および隅棟の鬼瓦7個と大棟鬼瓦の鰭一対は既存に倣い新調した。また、屋根瓦葺の工法は、屋根荷重の軽減を図るため空葺とした。
終わりに

三縁寺大門全景
今回の開山堂楼門の修理工事とは直接関係するものではないが、移築前の護国院の表門について少し触れておきたい。
護国院の表門は、開山塔整備時の明治18年に城陽市の三縁寺に移築されて、同寺の大門(城陽市指定有形文化財)として現存している。大門は一間一戸向唐門(桁行11.32尺 梁行5.00尺)で、屋根は元杮葺であったものを桟瓦葺に改められているが、そのほかは改造を受けることなく元の形式を伝え、屋根の曲線はのびやかで、安土桃山時代の向唐門の本格的な造りとなる重要な遺構と位置付けられている。
以上、開山栄西禅師八百年大遠諱記念事業の一環として実施された開山堂楼門の保存修理についてその概要を述べてきたが、このたびの工事では、近世における比較的小規模な禅宗寺院における三門の例として貴重な遺構である開山堂楼門だけでなく護国院の表門の来歴についも知ることができ、いずれもが文化遺産として長く後世に引き継がれていくであろうことを思うと極めて感慨深いものであった。
最後に本工事中にご指導、ご協力いただいた建仁寺ならびに工事関係者各位に改めて感謝申し上げます。
※当「建仁寺開山堂楼門」修理工事には、平成24年度に当財団で助成を行いました。
特集 京の茶室 2「組みあわせる妙 小堀遠州の茶室」
小堀遠州の茶の湯を表現するのにしばしば「きれいさび」という言葉が使用されます。閑寂や枯淡のなかに、その反対の言葉とも思える華やかさや麗しさのある風情のことをいいます。この「きれいさび」を含め遠州は、本来性格の違うものを組みあわせ、新しい形を造り上げました。
小堀遠州、本名は政一。天正7(1579)年、近江国小堀村(現長浜市)に小堀正次の長男として誕生しました。幼名は作助、遠州の名は、従五位下遠江守であったことによります。早くから茶の湯に親しんでおり、古田織部に師事したといい、織部のあと、江戸幕府の茶道師範として迎えられます。また幕府では作事奉行を務め、禁裏、仙洞御所、二条城、江戸城山里、駿府城、名古屋城など重要な建造物の造営を担当しました。一方で作庭家としても知られ、現在では全国各地に遠州好みを称する庭園が数多く存在します。おそらくは遠州が直接かかわっていないものもあるでしょうが、遠州が当時の庭園デザインをリードしており、その影響を受けたものも遠州好みと言っているのだろうと思われます。
遠州は当時の江戸幕府においては重要な立場にありました。一方で茶の湯の理念は、そういった社会秩序とは別のもの、場合によっては相対するものでした。千利休の茶は織部に伝えられ、その織部から遠州へと伝えられました。遠州の茶の湯そして茶室は、茶の湯の理想と時代の要請、という相対するものを組み合わせることに砕心してつくられたものです。
慶長(1596-1615)の頃、遠州は伏見の六地蔵の屋敷に住んでいました。そこで使用されていた茶室は長四畳でした。寛永年間(1624-1644)後半になって、伏見豊後橋詰の奉行屋敷において行われた茶会では、四畳台目の茶室が使われていました。先の長四畳を発展させた形で、草庵、つまり素朴さを表現したものとなってます。これは遠州がしばしば用いた形式で、長四畳に台目の点前座を取り付けた格好になります。床の間が下座、つまり亭主のやや後方に構えられ、躙口が側面の中央部に設けられています。後述する現在松花堂庭園に復元されている閑雲軒に似たものです。またこの茶室には格式の高い空間としての書院、書院と茶室の中間的なややくつろいだ空間の鎖の間、さらには庭園内に独立した茶屋が併設されていました。遠州は四畳台目とこれらの施設を一体化して計画し、茶会に使っていたようでした。
このように遠州は、違った性格の部分を一つの茶室の中に作り込み、さらには全体としてさまざまな要素を持った複合の施設を組み上げていきました。
それでは遠州とその関わりのある茶室を見ていきましょう。
金地院八窓席

八窓席 点前座と床の間 写真/神崎順一撮影
小堀遠州が金地院崇伝の依頼を受け、金地院に以前からあったものに手を加えたもので、寛永5年(1628)頃までに完成したと考えられています。外観は柿葺の片流れ屋根です。三畳台目の平面で、亭主の着席する点前座と床の間が並んだ形式となっています。床柱が赤松皮付き、相手柱が櫟の皮付き、そして床框は黒漆が塗られています。床の間と点前座との境の壁には墨蹟窓があけられています。点前座は、いわゆる台目構えという形式です。台目切りに炉が切られ、椿の中柱が立てられ、袖壁には下地窓があけられています。亭主の場所を小さく扱うのは、りっぱな道具立てによる格式の高い茶の湯を拒否する形式で、また袖壁や中柱といった要素によって次の間、つまり格下の空間のように見せています。一方、点前座と床の間が並ぶことによって、客は床の間の姿と亭主の手前を両方一緒に見ることができます。これは客の目を楽しませる構成といえるでしょう。

八窓席 躙口 天井壁留と同位置
この茶室の特徴は、点前座の向かい側に開けられた躙口の位置です。通常ならば端に寄せて開けられるところが、壁の途中に設けられています。ちょうど天井も平天井と化粧屋根裏天井を分ける位置です。躙口は、刀を置き、頭を下げ、体を小さくして入る、客用に設けられた出入口で、侘び茶には欠かせない要素で、平等を表現するものです。一方これに加えて遠州は、封建社会の秩序を茶室に体現するため、躙口の右左で空間の上下、つまり貴人座と相伴席に二分しました。茶の湯の理念と封建秩序をあわせた形式となっています。また一般的に躙口は露地から直接上がり込む形式ですが、ここでは縁に接して設けられています。
なお、この茶室には多くの窓があけられています。外に面しては三つの連子窓と一つの下地窓、そして床の間と点前座の袖壁です。窓が多い茶室は遠州の茶室の特色ですが、八窓庵と称しながら六つの窓しかあけられていません。八という数字は多くの数という意味か、あるいは改修されていますので、元は八つの窓があったのかも知れません。

八窓席 躙口 縁から入る
孤篷庵忘筌

忘筌 中敷居の下に草庵の露地が構成される 写真/孤篷庵所蔵・宮野正喜撮影

孤篷庵 平面図 作図/筆者
アプローチは西側(図の左)、十二畳のうち北側の三畳は相伴席としての意味を持つ
大徳寺孤篷庵は慶長13年(1608)、小堀遠州によって龍光院内に江月宗玩を開基として小庵を創立したのが始まりです。寛永20年(1643)には、現在地に移転し独立し、そのとき堂宇が拡充されたものと考えられています。残念なことに寛政5年(1793)に焼失しました。しかし近衛家や松平不昧らの援助によって、元の通りに再建されたのが現在の姿です。
その中に位置する忘筌は、L字形に構成された十二畳の書院座敷です。L字形にすることで、相伴席を組み込んだ形式となっています。北側の三畳部分です。遠州の師である古田織部は、敷居と鴨居によって厳密に区分された相伴席を表現しましたが、ここでは緩やかな区分となっています。また点前座と床の間を並べることも遠州の得意としたところで、これらを景色、つまり鑑賞の対象として表現しているのです。
もっとも注目される部分は縁先の構成です。中敷居の上に障子が建てられ、その下が吹き放たれています。生け垣で囲われ、茶の湯の庭として必要最小限の手水鉢、燈籠を室内から見せています。逆に他には何も見えません。その軒内部分が露地に相当します。つまりタタキの中に飛石が打たれ、沓脱ぎ石から縁へ上がるように組み立てられています。中敷居があるため縁への上がり口は躙口のように頭を下げないと通れないような仕組みになっています。つまりこれは草庵茶室の躙り入る方法を書院に応用したものです。またこの上がり口の位置は座敷の中央となっており、その左右で空間の上下の意味を変えた平面構成となっています。
室内は面取り角柱に長押が付けられ、下が張付壁、上が漆喰壁となっています。天井はいわゆる砂摺り天井と呼ばれ、杢目を浮き立たせそれに胡粉を塗った竿縁天井です。点前座と床の間の境部分は風炉先窓のように吹き抜かれ井桁の格子を組み、下半分を唐紙張りとしています。炉ははじめ台目切りであったと言いますが、現在は四畳半切りに構えられています。
部屋の基本的な組み立てが端正な書院造なのですが、天井部分や縁先の組み立てなどが草庵的なものです。書院と草庵を組み合わせた、遠州らしい座敷です。
松花堂庭園内 松隠(閑雲軒)

松隠 点前座左の火灯口が給仕口 写真/神崎順一撮影

松隠 躙口側

松隠 正面に床の間、左に躙口、右に点前座
石清水八幡宮は幕末まで神仏習合の宮寺として、48もの坊がありました。その一つ、瀧本坊には松花堂昭乗が社僧として住んでいました。この瀧本坊には小堀遠州が造った茶室や書院などが存在し、その中に閑雲軒がありました。寛永9年(1632)頃に建てられたと考えられますが、惜しくも安永2年(1773)に焼失しました。しかし記録やおこし絵図が遺されており、昭和45年(1970)、中村昌生氏によって松花堂庭園内に復元されたのが松隠です。
当時の記録にもありましたが、近年の発掘により、山腹の崖にせり出した「空中茶室」であったことが明らかになりました。廊下が露地の役割を果たし、眼下に絶景を見下ろしながら歩き、縁より躙口に入る形式でした。屋内である廊下が戸外のように演出されていたようです。
間取りは四畳台目。客座は長方形の四畳で、その長辺のおよそ中央部に台目構えの点前座が設けられています。床の間は下座に構えられ、躙口は点前座の対面の壁の中間部にあけられ、その上には連子窓と下地窓が重ねて配置されています。躙口が壁の端にないことで、その左右、つまり床の間側と反対側で、空間の上下が分けられています。点前座には台目切りの炉が設けられ、亭主の入る茶道口と料理や菓子を客座に運ぶ給仕口が直角に設けられています。また点前座の勝手付、つまり客座と反対側には上下にずらして並べた色紙窓が設けられますが、師匠の織部とは違って、床より少し壁を立ち上げた形にしています。点前座の上部には突上窓があけられていましたが、復元では屋根構成の関係で省略されています。

松花堂庭園 布泉形手水鉢 本歌は孤篷庵にある
松花堂

松花堂外観 茅葺屋根の方丈である 写真/八幡市立松花堂庭園・松花堂美術館所蔵

松花堂室内 土間にはくどが備えられている
松花堂昭乗は書道や絵画に優れ、茶は小堀遠州に師事したと言われています。先の瀧本坊には、貴族や武士あるいは町人など、既存の枠組みにとらわれることなく、多くの文化人たちが集まり、寛永文化の交流の中心でもありました。しかし昭乗は、寛永14年(1637)に瀧本坊の南の泉坊に引退し、茶の湯空間も含む方丈の生活空間として松花堂をつくりました。
明治の神仏分離令によって、松花堂は山麓の大谷氏の別荘に移築され、さらに明治24年(1891)井上氏によって現在地に移築され、泉坊庭園を復元しました。戦後、塚本氏の所有するところになり、のちに史跡松花堂として八幡市の管理されるようになりました。
建物の屋根は茅葺で正面に桟唐戸を設けています。平面は土間付の二畳で床の間と丸炉を下に備えた袋床、仏壇、そして勝手と水屋によって構成され、天井は折上天井で中央部に網代を組んで、日輪に鳳凰の絵が描かれています。現在、炉は丸炉ですが、以前は隅炉であったことを伝える史料もあります。
この建物には庵居という住宅要素が簡素に圧縮されています。また持仏堂の要素もあり、一方茶事に使用することもでき、方丈の空間にそれらの要素が凝縮されています。瀧本坊において華やかな茶事を行っていた昭乗の、最終的な到達点が松花堂でした。昭乗は遠州に学び、最終的には千利休的な厳しさに行き着いたといえるかも知れません。
文化財修理現場の現場から 「仏像彫刻の保存修理について ―泉涌寺本尊『三世仏』の修理を通して―」
1,はじめに

「三世仏」 修理前
修理対象の「三世仏」は、東山区泉涌寺の仏殿に安置されている。泉涌寺は歴代天皇の御陵が営まれる「御寺」で、真言宗の大本山であり、東山三十六峯の月輪山に静かにたたずんでいる。三世仏は泉涌寺仏殿の本尊で、毎年三月の涅槃会には巨大な涅槃図が掛けられる高い須弥壇上に安置されている。
三世仏は釈迦如来を中央に、向かって左に阿弥陀如来、向かって右に弥勒如来の三尊が安置されている。いずれも等身の坐像で、光背・台座、頭上の天蓋で荘厳され、過去・現世・来世の教主を現している。
2,修理開始までの経緯
平成18年12月、専門家による三世仏の学術的調査が行われることとなり、須弥壇から御像を降ろす作業の協力依頼が、美術院に寄せられた。
本躰各像を降ろすことは可能であったが、台座を壇上から降ろすにあたり、仰蓮を持ち上げようとした時、組み付けがバラバラとなる様相を呈した。仰蓮より下の敷茄子・華盤・反花・框等の組み付けも不安定な状態で、台座を須弥壇から降ろすことは断念せざるを得ない損傷状況であった。
その後、三世仏の修理が実現化し、平成20年7月より4年がかりとなる修理を開始した。三世仏修理中の仮安置台を設け、各像本躰・光背・台座のすべてを慎重に仮安置台に遷座し、空となった須弥壇上に足場を設置した。この足場は天井から天蓋を取り外すためのものであるが、同時に修理されることとなった須弥壇後壁の巨大な絵画を外すための足場と、一部を共有するものであった。
こうして天蓋を降ろし、三世仏の修理が開始された。
3,三世仏の損傷状況
まず最初に修理を行った三基の天蓋は、各像の頭上高く天井から吊り下げられており、取り外し前に損傷状況等を把握することがきわめて困難であった。安全に取り外すためには状況の判断が重要であるため、下からの望遠鏡による観察や、望遠レンズを用いたカメラ撮影によって、損傷状況を見極めた。
天蓋は三基とも、碗状の円い中心部の周囲八方に吹き返しをつけた「円蓋」で、中心部には蓮華と三躰の飛天を配し、豪華な羅網・瓔珞が垂れ下がる。主要部分は桧材で造られており、飛天は彩色仕上げ、その他は泥下地(膠地・胡粉地)漆箔で仕上げられている。
無事、天井からの取り外しをすませ、修理作業所であらためて損傷状況を確認したところ、次のような状態が確認された。
- 三基とも、経年の埃が著しく積もっていた。
- 円蓋本体及び瓔珞の漆箔・彩色が浮き上がり、剥落が進行中であった。
- 瓔珞を繋ぐ銅線が、腐蝕により各所で切断し、列ごと落下するもの、枝分かれ箇所で切れるもの、個々の部品ごとに落下するものがあり、亡失・欠損がみられた。
- 瓔珞の部品亡失を後世に補ったと思われる、形状不適合な部品がみられた。本来は金属製である「舌」(瓔珞の最下端にある部材)に、プラスチック製のものが多くみられた。なかには段ボールを貼り合わせて作られる部材もあった。
- 羅網の繋ぎが著しく乱れていた。
- 釈迦如来の天蓋では、吹き返しの一方が落下していた。
天蓋に引き続き、三世仏本躰・光背・台座の修理を、一躯ずつ行った。
本躰は、三尊とも針葉樹材を用いた寄木造で、肉身部は弁柄漆塗り、金泥仕上げ。衣部は黒漆塗り金箔仕上げで、胡粉による盛り上げ彩色が施されている。
損傷状況は次の通りであった。
- 三尊とも、埃が著しく付着していた。
- 肉身部の金泥が各所で剥がれ、弁柄漆塗が露出していた。衣部の漆箔は下地より断文が生じ、漆箔の浮き上がり・剥落がみられた。
- 三尊の各矧ぎ目は比較的しっかりしていた。緩んでいるところは一旦解体する予定であったが、解体は行わなかった。

「弥勒如来」 頭部内刳り面・玉眼嵌入部(ファイバースコープによる撮影)
矧ぎ目の緩みについて、弥勒如来の後頭部の矧ぎ目には隙間が生じていたが、この矧ぎ目は躰部まで背板状に繋がっていたため、解体しなかった。隙間からファイバースコープを入れ、躰内内刳り部を調査したところ、墨書・納入品は発見されなかったが、玉眼嵌入状況などが確認された。
光背については、次の通りであった。
- 埃の付着・漆箔の浮き上がり・剥落がみられた。
- 造像当初や後世修理時に行われた矧ぎ目の接合が劣化し、各所で緩みが生じ、脱落の危険性があった。
- 経年の間に失われた彫刻部分が各所にみられた。
- 周縁部を繋ぐ銅線が腐蝕し、損傷移行の危険性があった。
台座は、今回の修理において最も損傷が著しく、先に述べたように、調査段階において動かせないほどの損傷を被っていた。
- すべての矧ぎ目が緩み、離れる危険性があった。
- 近時の修理と思われるが、蓮弁が外れかける箇所や、矧ぎ目の緩みによって台座が崩れかける箇所に、電動釘打ち機で無数の鉄釘を打ち付け崩壊を防止していた。
- 今日まで何度も修理が繰り返され、古い部分を残しつつ、新しい材を補い組み上げ、辛うじて安定を保っていた。
- 三尊の蓮弁が混じって入れ替わり、修理時に補足した蓮弁がみられた。蓮弁枚数が不足したためか、台座後方を切り落とし、蓮弁が少ないままで葺き方を改竄されていた。
- 内部構造が非常に脆弱で、下段の框部はほとんど空洞の状態であった。
4,修理の実際

天蓋 修理作業風景

「弥勒如来」 修理前

「弥勒如来」 修理後

「弥勒如来」 光背 解体

「弥勒如来」 台座仰蓮部 解体

「弥勒如来」 台座蓮弁 組み付け

「弥勒如来」 台座の内部構造強化
美術院は明治31年(1898)、岡倉天心によって創設された「日本美術院」の古美術品修理部門を前身とし、現在の文化財保護法の先駆けとなる古社寺保存法に基づく国宝修理を開始した。以来百十余年にわたり、国宝・重要文化財をはじめとする木造彫刻の修理に携わってきた。文化財の修理は、現状維持修理を基本的理念としている。造仏されてから何百年もの月日を経て、修理を繰り返しながら現在まで伝えられた尊像を、美術的・宗教的・歴史的な価値を失わず、次の世代に伝えるための修理を行っている。
今回の修理も、文化財修理の理念に基づき、次のような修理を行った。
- 天蓋・本躰・光背・台座すべてに付着する経年の埃を、刷毛や筆で除去した。経年の古色はそのままとし、水拭きや薬品によるクリーニングは行わなかった。著しい汚れについては精製水での除去を行った。
- 表面層の漆塗り・金泥・金箔・盛り上げ彩色の浮き上がりは膠・合成樹脂等で剥落止めを行った。
天蓋については、次の通り。 - 瓔珞・羅網とも、一旦解体し、それぞれ欠損・亡失部分を桧材で補足し、落下していた部分は元の位置に戻した。プラスチックや紙で作られていた部分は当初の材質のものに取り替えた。
- 瓔珞・羅網を繋ぐ銅線は、金メッキを施した新たな銅線で繋ぎ直した。
本躰の修理は次のように行った。
- 矧ぎ目のうち、緩んでいた弥勒如来・阿弥陀如来の後頭部の矧ぎ目は、漆で接合した。その他の矧ぎ目は現状のままとし、表面層の剥落止めを行った。三尊とも面相部の金泥の剥がれは尊容を害しているため、新たに金泥を施し尊容を整えた。
- 衣部の著しい金箔の剥落部は新たに金箔を施した。
光背の修理は次の通り。
- 矧ぎ目を一旦解体し、欠損・亡失部は桧材で補足を行い、組み上げた。修理箇所は漆箔仕上げを行った。光背はほぼ左右対称の表現となっているため、欠損部の補足に際しては、相対する箇所の表現を根拠とした。
台座の修理は、今回の修理作業のうち最も困難なものとなった。
- 数百本打ち付けられていた近時修理時の鉄釘を、素地を傷めないように抜き取った。また、造像当初あるいは江戸時代の修理時に打ち付けられた釘・鎹の腐蝕が進んでいたため、抜き取った。
- 座の全部材を解体し、各矧ぎ目を調整し組み付けを行った。
- 弁の割れの接合・欠損部の補足を一枚一枚行い、造像当初の葺き方(円板各段の側面に蓮弁を取り付ける)で仰蓮を組み付けた。
- 各所彫刻の割損欠失部は、桧材で丹念に補足を行った。
- 各段内部構造を強化し、台座中心の心棒が有効に働くよう台座の安定をはかった。
修理箇所は古色仕上げとし、全体的修理箇所が違和感のないよう古い部分との調和をはかった。
5,終わりに
以上、泉涌寺仏殿の本尊・三世仏の修理の概要を述べた。
損傷が甚大であり、修理工程が進むにつれて判明した損傷状況もあり、修理担当技師達は長期間にわたって三世仏と真摯に向き合い、修理を続けさせていただいた。
その間、泉涌寺様には深いご理解をいただき、この場をお借りして御礼申し上げます。また、修理事業に対しご支援をいただいた京都市文化観光資源保護財団に、感謝の意を表します。

「三世仏」 修理後 撮影/神崎順一
※当「三世仏」の修復には、平成22・23年度の2ヵ年にわたり当財団で助成を行いました。
文化財修理現場の現場から 「絵画の保存修理について ―『真正極楽寺所蔵花車図屏風』の修理を例に―」
1、はじめに
真正極楽寺が所蔵している6曲1双の花車図屏風は、金地に藤や牡丹、すすきや萩、菊などを乗せた花車が描かれる江戸時代の狩野派による作品と考えられている。本稿は平成23、24年度の2カ年にわたり、株式会社岡墨光堂によって実施されたこの花車図屏風の解体修理を例としながら、現代の絵画修理について紹介をする。
2、花車図屏風の損傷状態について

真正極楽寺「花車図」六曲一双屏風修理後 上:右隻全図 下:左隻全図
絵画にはどのような損傷が発生し、修理が必要となるのか。絵画の損傷を具体的に明示する為に、先ずはこの花車図屏風に修理が必要であると判断される発端となった損傷について触れておく。
本作品は金箔を貼った料紙の上に緑青や群青、胡粉等の様々な顔料によって彩色が施されている。伝統的に日本の絵画は素地となる紙や絹に、牛や兎の皮等から抽出した蛋白質である膠の水溶液を用いて、顔料を接着させて彩色を施す。つまり西洋の絵画のようにワニス等で表面が保護されるという事が無い。その結果、日本の伝統的な絵画の表面は鑑賞時を中心に光と空気に直接的に晒されてしまうこととなる。また、接着の役割をしている膠は、時間が経てば自然に劣化し、その接着力を徐々に低下させてしまう。その結果、色鮮やかに配された彩色層は伝世の過程の中で剥落をおこしてしまう。特に花車図屏風の様な色の美しい絵画であれば、その剥落を可能な限り防がなければならないし、剥落の進行が認められたならば、その悪化を防ぐための修理処置を施さなければならない。

写真1
例えば左隻に描かれている菊の花に注目してみると、胡粉でしっかりと盛り上げた立体的な花弁に大きな剥離と剥落が確認できた(写真1)。

写真2
また、花車の装飾部分に注目すると、鱗状に彩色の剥離が発生しており、それが剥落へと進行しているのが明らかであった(写真2)。加えて素地となっている金箔を押した料紙についても、劣化による大きな亀裂が確認された。屏風や襖といった木製の下地に張り込む装訂形態については、安置されている場所の温湿度変化に応じて料紙は微妙に伸縮を繰り返す。その伸縮に耐えられなくなった場合、亀裂や破れといった損傷を発生させる事がある。

写真3
屏風の状態についても詳細に観察すると、作品の外周に配された表装の金襴が部分的に剥がれており(写真3)、その外側に取り付けられている漆塗りの襲木(屏風の外側に付けられる木製の枠のこと)にも多くの破損が確認できた。
以上のように絵画は彩色や素地、それを取り巻く構造体に経年の劣化(時には人為的なものが原因となる劣化や破損もあるが)によって発生してしまった損傷の悪化が懸念される場合に修理が必要であると判断されるのである。
3、絵画の修理と材料について
既述の通り、絵画には様々な損傷が伝世の過程で発生し、それを放置しておくと、その状態は悪化し、最終的には展示や鑑賞ができないようになってしまう。そうならない為にも損傷が認められた場合には、専門家による早急な修理が必要なのである。
さて、我が国において絵画の修理を進める場合には、幾つかの原則が定められているので、代表的なものを簡単に紹介しておきたい。
先ずは修理には「現状維持」という原則があることを示しておく。これは、修理が必要とされる絵画作品の破損の状態を「現状」と認定してそれを「維持」するという事ではない。言い換えるならばその作品の「真正性」の維持が前提なのである。真正性とは、その絵画がそもそも有していた本来的な表現、価値、美であり、それを維持ということがこの「現状維持」の意味するところである。例えば修理が必要とされている作品の絵具が剥落し、素地の料紙が部分的に破損したり、虫害によって欠損しているとする。損傷の悪化による真正性の骨格となる彩色や料紙のさらなる破損を防ぐ事が修理の目的なのである。つまり、絵具が剥落によって失われた箇所に線や色を復元的に付加する事をしてはならないのだ。これは絵画そのものが制作されたことによって有している真の価値、真正性を尊重するということから定められている原則なのだ。
また、使用する材料は基本的に可逆性を有したものでなければならない。つまり、絵画に付加される裏打紙や欠損を補う補修用の紙、それらを接着する小麦の澱粉糊等の様々な材料は、必要とあれば何時でも専門家によって除去、交換ができなければならないのである。当然、すべての材料は、修理の後に作品に悪影響を及ぼす様な素材であってはならない。殆どの修理の材料は、どのような原材料で誰がどのようにして作ったものであるのかを明らかにする事によって、材料の安全性を担保している。例えば裏打ちに用いる紙は楮という桑科の植物繊維を原料としているが、絵画の保存に適しているのは国産の楮のみが用いられ、今でも手作業で漉かれたものが使われなければならないと考えられている。それは何故だろうか。
約100年に1回程度の頻度で修理が実施される事が理想だが、修理の記録等により1世紀以上前に修理をした事が確認できる絵画を解体してみると、現時点で我々が修理に用いている素材と以前の材料に大きな違いが無いことが分かる。ここに修理現場が伝統的な材料にこだわる理由があるのである。以前に用いられた材料に近いもので修理をおこなえば、今から100年後の次の修理の際に、その材料がどのように劣化してゆくのかを明快に把握できる。つまり伝統的な材料の安全性は、これまでの時間が証明しているのである。
4、花車図屏風の修理工程
以上の様な原則の下で絵画の修理は安全性を常に重視しながら展開されてゆく。各々の工程についての詳説は紙面の都合上割愛するが、ここでは簡単に花車図屏風の修理工程を示しておく。
1.調査:修理工房内で様々な光源を用いて表面の状態を観察、記録する。彩色の状態や料紙の劣化程度等、様々な角度からの詳細な観察をおこなう事で、修理方針の詳細を定めてゆく。

写真4

写真5
2.解体と剥落止め:屏風の形を解体し、本紙料紙と裏打紙だけの状態にする(写真4)。併せて剥落の進行している彩色層に筆を用いて膠水溶液を浸透させて彩色層を強化し、この後のあらゆる修理作業に耐えうるだけの強度を彩色層に与える(写真5)。

写真6
3.裏打紙の除去:素地である紙は一般的に数枚の楮紙によって裏打ち加工が施されている。この裏打ちは言わば、建物の基礎部分であり、これを健全な劣化をしていないものに取り替える事で、絵の描かれた紙を裏側からしっかりと支える事ができるのである。この工程が現代の絵画修理においては、他の作業工程もさることながら、極めて高い技術水準が求められるものとして知られており、且つ欠く事のできない修理工程なのである(写真6)。

写真7
4.欠損部分への補填と組み立て、補彩:亀裂や欠損の箇所には裏面から補修用の紙を充てる、あるいは補填して繕うが、厚みの斑が出てはならない。余分な補修用の紙の重なりを作らないように配慮することが肝心だ。補修の終わったものには、新たに裏打紙を小麦澱粉糊によって接着し、新調した木製の組子下地に7種9層の下張りを施して、その上に裏打ちが完了した絵を張り込む。この入念な下地への下張り加工が絵画面の保存性の向上に大きく繋がる(写真7)。これは目に見えない部分であるが、決して欠く事のできない工程と言える。最後に屏風の形に仕立てて、補填した箇所へは周囲の基調色にあわせた色を入れる。既に触れている通り恣意的な形や線等の表現は一切付加しない。
5、おわりに(修理の結果と新知見について)

写真8
2ヶ年という時間をかけて実施された修理工程の要点だけを上記の通りに紹介したが、これによって損傷の進行は抑えられ、改めて安心して鑑賞ができる状態に花車図屏風の修理は完了した。最後に修理中に知り得た事実の中でも興味深いと思われる下絵の指示書きについて触れておきたい。修理中に赤外線による写真撮影を行った結果、右隻第5扇にある燕子花の下絵には「志ろ」(白色のこと)のような花弁と葉の色分けの指示書きがあった(写真8)。また、第2扇の牡丹の花と葉が複雑に描き込まれている箇所については、塗り分けの際に混同する事を防ぐ為であろうか、「花」という文字の指示書きが確認できた。
修理とは言うまでもなくここに紹介した様な損傷を改善する事を主たる目的とするのであるが、その過程を通じて明らかとなった事についても正確、且つ緻密に記録をおこなって保存をしておかなければならないのである。そういった知見は美術史をはじめとする作品研究を進める上で欠く事のできない存在であり、修理とは正にその作品を見つめる様々な分野の異なった専門家達によって情報を共有してこそ、真の価値が見出されるものなのである。
※当屏風の修復には、平成 23・24年度の2ヵ年にわたり当財団で助成を行いました。
特集 京の茶室 1「桃山の遺響」
はじめに
茶室は茶の湯のために調えられた施設で、極限にまで小さくした空間に無限の広がりを凝縮した建築です。
いうまでもなく京都は茶の湯の中心で、茶家をはじめ、寺院や町家などに多くの茶室が保存され活用されています。また茶室の考え方やそのデザインは、日本の伝統的な住宅やその他の建築に影響を与えています。数寄屋、あるいは数寄屋風などと呼ばれる建築がそれですが、気づかないうちに私たちの住宅の中にも取り入れられているもので、和風建築や和室といった場合、なにがしかの茶室の影響を受けていることが少なくありません。
今回のシリーズでは、そういった建築の基礎にもなっている茶室の歴史をひもときながら、京都市内に所在するいくつかの茶室を解説していこうと思います。
茶の湯のための専用の施設は、室町時代に現れたと考えられています。茶の湯が行われる場所が、会所と呼ばれた大きな座敷をもつ社交施設から四畳半程の小さな空間に移っていき、やがて専用の施設となりました。一方で、庶民の住宅の簡素な形からの系譜も考えられます。八代将軍足利義政が建てた慈照寺(銀閣寺)にある東求堂の同仁斎という部屋は、現在でいう茶室とはいえないかも知れませんが、原形の一つとして位置付けられています。
やがて南蛮貿易で繁栄した堺の町衆たちが中心になり、茶の湯を発展させ、それとともに無駄を削ぎ落とした簡素な空間を作り上げていきました。そこに現れたのが豊臣秀吉のブレーン、千利休です。利休は極限の二畳を造りました。亭主(まさにその亭の主)の一畳と客の一畳。これ以上切り詰められない大きさの座敷は、山崎の妙喜庵にある待庵です。他方、利休は客をもてなすことを建築という形で表現しました。大坂屋敷に造られた三畳台目(台目あるいは大目は長さが約3/4の畳)がそれです。客に床の間の前の広い三畳の空間を提供します。一方、亭主は台目畳という小さな畳を使い、客との間を中柱と袖壁という仕切りで緩やかに区切り、一段低い場所を表現しています。利休は優れた形態を生みだしました。そしてその形をみがきあげたのは、あとに続く茶人たちでした。
さて今回は、桃山の遺響ということで、利休とその直後の時代、またその影響を受けたと考えられる茶室を拝見しましょう。

妙喜庵待庵 床正面

利休大坂屋敷三畳台目の復元 客室から点前座を見る 作図/筆者
藪内家燕庵

藪内家燕庵外観 茅葺屋根
藪内家の代表的な茶室燕庵は、古田織部の好みです。好みとは、その人が直接建てたという意味、そしてその人のデザインで場合によってはのちに建てられたという意味もあります。ここでは以下のような展開がありました。織部は藪内家の流祖剣仲の義兄でした。織部は利休の三畳台目に工夫を加え試行錯誤を繰り返していましたが、その中の一つを大坂の陣の前に剣仲に贈ったそうです。はじめ藪内家の下長者町屋敷に建てられ、のちに現在の西本願寺にほど近い現在の屋敷に移築されました。しかし幕末の動乱の中、元治元年(1864)の兵火によって茶室は焼けてしまいました。そこで天保2年(1831)頃に摂津の武田家に建てられた燕庵を忠実に写した茶室を移築しました。それが今の燕庵です。

藪内家燕庵内部 左が相伴席、右が点前座 袖壁の下が吹き抜けている
写真/公益財団法人藪内燕庵所蔵
それでは、燕庵の特徴を見ていきましょう。屋根は茅葺屋根です。茅葺屋根は通常、農村部に建てられる民家に多く見られる形式ですが、茶室の場合、素朴さを表現したものです。客の入口は躙口で、その近くには刀掛が設けられています。小さな入口と刀掛の組合せは、武士でも刀をおいて中に入りなさいという意味、つまり平等を表現しています。内部は三畳台目に相伴席のついたものです。客には三枚の畳、亭主が着席する点前座は畳一枚に満たない台目畳、つまり客に広い空間を提供し、亭主は狭い空間を使用するのです。亭主の謙虚さ、逆に言うと客をもてなす、ということを形で表現したものです。さらにここでは、相伴席という空間が付加されています。ここはお伴の人が座るところですが、それまでは外で待機していた従者を中に招き入れるという意味と、しかしながら敷居と鴨居で隔てており、空間の上下を区別する武家の礼法に適応したものとの側面があります。また人数の多いときには空間を拡大するという使い方もあります。
床の間は、下座床、すなわち亭主から見て後方に位置する床の間となっています。床柱は手斧ではつった杉材です。床框(床の前下部の横木)は黒漆で塗られています。床の間の側面には窓があけられていますが、ここでは壁下地を見せた下地窓に花入れの釘が打たれ、外側に障子が掛けられています。壁の下地を見せることは、草庵の表現です。つまりこの窓は、明かり採りというより、花を見せることを主眼として、あるいは花を生けなくとも床の間の掛物を重視し、その背景としての側壁を粗末に表現する手段として設けられているのです。花明窓ともいいます。はつりの床柱も粗い表現ですが、一方、塗りの床框などは格の高い表現です。それらを併せて見るならば、空間の上位と下位を紛らかしていると考えられます。室内における平等、客のもてなし、武家空間の秩序、などさまざまな意味を発信しているのが、この床の間です。
亭主の座する点前座の勝手付、つまり客とは反対側には、色紙窓があけられています。上下に違った形の矩形の窓を並べた形式で、日本伝統の色紙散らしのデザインの建築へ応用した形で、織部のオリジナルと考えられています。これは客から見ると亭主の背面にあるもので、点前座を演出する重要な背景となっています。
燕庵は先に紹介した利休の三畳台目を、さらに進化させた形です。織部は茶碗などでは破格のデザインを作り上げたことで知られていますが、建築においては、むしろ一つの形を洗練させることに力を注いでいました。それはやがて、多くの武将たちの茶室に採用されました。のちの時代から見ると茶室のスタンダードともいえるでしょう。
高台寺傘亭および時雨亭

傘亭と時雨亭
高台寺は、豊臣秀吉の正室高台院が秀吉の冥福を祈るために建立されました。複数の茶室がありますが、ここではその中の伏見城から移築されたと伝えられている傘亭と時雨亭という二つを案内します。
傘のような姿をしているところから名付けられた傘亭は、もと「安閑窟」と呼ばれていました。内部の束に掛けられた変額にその名を見ることができます。伝承では秀吉の伏見城に千利休が造ったものだと伝えられています。残念ながら現在では確かな証拠がありませんが、その形態や高台寺の成立を考えたとき、信じうる一面をもっていると考えられます。

傘亭内部 正面左が上段

時雨亭二階 上段から下段に備わった床の間(右)と茶点所(左)を望む
写真/神崎順一撮影
さて傘亭は、茅葺の宝形造りの建物で、内側では竹の垂木が上部の一点に集中し、傘を下から見上げたような形態となっています。部屋の中央を南北に渡された丸太の梁の上に束が立てられ、いささかアクロバティックな構造となっています。間取りは、二間四方で南側に台目二畳の大きさの板間を張り出した一部屋の構成です。入口は西側にあけられ、石敷の土間があり、舟入の形式となっており、かつて池に面して建てられていた名残とも考えられています。北側には畳一畳の上段があります。角に赤松皮付きの柱を立て、床の間のような形式です。しかしここが床の間でないことは、二方の壁面に窓があけられ、軸を掛けるところがないことから明らかです。南に張り出した板敷き部分には竈と長炉、棚などが設けられています。
傘亭から土間廊下で時雨亭がつながっています。時雨亭は二階建の建物で、一階が勝手で二階部分が上段と下段に分かれています。上段は三方に突き上げの戸があり、大変開放的で、展望を楽しんだことがうかがわれます。下段には床の間に並んで竈の備わった茶立所が設けられており、竹の中柱と袖壁で小さく囲われ、謙虚な構えを見せています。
いずれも素朴な造りであって、自由な茶を楽しんだ空間の表現と読むことができます。
真珠庵庭玉軒

庭玉軒 潜りから室内を望む
庭玉軒は、江戸時代初期の茶人金森宗和によって造られた茶室と伝えられています。しかし別に、他の茶室に手を加えて、宗和好みに改めたという説もあります。いずれにせよ宗和のデザインであった、ということには異論はなさそうです。さてこの茶室は非常に珍しい形態をしています。それは土間をもつ茶室なのです。この土間は内坪とも呼ばれます。通常、茶室は躙口や貴人口と呼ばれる出入口から客が座敷に直接上がるのですが、ここでは躙口状の潜りを入るとそこが土間になっています。土間には蹲踞が設置され、座敷との境には引違の腰障子が建てられています。

庭玉軒内部 床の間とその右脇に給仕口と茶道口が並ぶ
写真/真珠庵所蔵
室内は二畳台目。亭主が着席する点前座は台目畳に中柱が立てられた謙虚な構成で、亭主の入口として太鼓襖が引違に建てられ、それぞれ茶道口と給仕口の役割を持ちます。床の間は下座に構えられ、天井は平天井と化粧屋根裏天井、落天井の三段の構成になっています。
さてこの土間付の茶室ですが、金森宗和がはじめて造ったということではありませんでした。じつは千利休が土間付の四畳半をつくっていたというのです。今は遺っていませんが、江戸時代に片桐石州らによって記録されていました。土間付の茶室は初期の茶室の形を伝えていると考えられるものなのです。小さな出入口からドマに入り、ユカに上がる形式は庶民の住宅に見られます。茶室には、土壁、壁下地を見せた下地窓、あるいは屋根裏を見せたような天井など、庶民の町家や民家のデザインが応用され、庭玉軒にも採用されています。さらにここでは、ドマとユカという民家の構成そのものが応用されました。
茶室は、庶民の住宅の素朴さを洗練させ、活かしています。やがてそれらは再び住宅建築に還元されますが、その意味で面白い巡り合わせの中に、この茶室は位置付けられます。
特集 京の近代仏堂 その4 「近代社寺建築を支えた大工道具」
はじめに
前3回号(『京の近代仏堂』-その1~3-)を通じて,概ね明治から昭和戦前期までの京都の近代寺院建築に焦点を当てその特質をみてきました。このなかでは明治以降の堂宮系和風建築が近世以前の建築技術をさらに昇華させていったこと,また,およそ明治後期以降には建築様式が復古調に,あるいは新意匠の創造のため,自由な形態が積極的に演出されるようになることを主な論点として紹介しました。
これらは技術の裏付けがあって,初めて実現し得たものであります。加工精度,建築部材接合法の発達を進化させ,仕上がりも美しく建築構成は堅固にするなど,伝統的な木工技術をさらに進展させるだけではなく,西洋建築から学んだ建築技術を用い,それらの応用と変形も同時にすすめられていきました。小屋裏を西洋伝来のトラスと伝統的な桔木の組み合わせによってまとめ,大スパンと自由な軒反りの実現がはかられることなどはその好例でありましょう。これらは明治維新後もわが国の和風の木造建築技術が健在でかつ柔軟性をもっていたことを示しており,こうした技術的成果が近代らしい堂宮系和風建築の創造を可能としていったとも言えます。
この近代木造建築技術の進展の貢献者として,建築用主要道具である木工具の発達は見逃せません。近代化・合理化に沿った職人の側からの対応で手道具を駆使して木造建築をつくる技術は,加工精度という点においても最高水準に達したといわれています。
『京の近代仏堂』最終回となる本号では近代大工道具の歴史についての理解,さらにはこれらの道具を通して見た近代堂宮建築文化の特色にまで思いを至らせてみます。
近世以前の大工道具の歴史(概説)

図1「六孫王神社権現社新縁起 坤」(六孫王神社(南区八条町)所蔵)
元禄15年(1702)に描かれた絵巻物で画面は社殿造営の場面である。前挽鋸を用いた挽割製材による正確な製材,台鉋による部材表面の美しい切削など,近世の大工道具の充実した様子を伺い知ることができる。元禄14年建立の一連の社殿は京都市指定有形文化財として現存している。
まず、近代にいたるまでの大工道具について、『ビジュアル版 日本の技術100年 第6巻』(1989年 筑摩書房)を中心にその歩みを簡単に通観してみます。
木の文化の国,とされる日本では昔から大工(木匠)が工人の中心であり,大工の手にした大工道具が道具の中の王者の位置を占めてきました。鉄の道具が普及しはじめた弥生時代中期の遺跡出土木材の加工痕跡をみると,鋸を除いてほぼ今日の大工道具の主要な種類が出そろっていることがわかります。鋸も古墳時代には出現していました。
しかしその鋸は横挽きのものだけで,建築の製材用の縦挽き鋸は15世紀に入ってから使われだしています。それまでは斧や鑿による打ち割り法で製材していました。鉋も古くから槍鉋がもっぱら使われていましたが,16世紀ころからはじめて今日のような台のついた台鉋が現われ,製材用の鋸とともに建築技術の革新期が現出します(図1)。
江戸時代に入ると職人技術の黄金時代がはじまり,これまで万能的であった大工道具も建具職・家具職などと分化した木工関係職人の用途にあわせて専門的・単能的な多くの種類に分化していきます。
近代の新型大工道具(概説)
既に木工具の基本的な機能は江戸時代において完成の域に達していましたが,明治以降も道具の開発・改良は続き,大正から昭和にかけて,大工道具はその最盛期を迎えます。昭和18年(1943)の労働科学研究所による大工道具の編成や道具の調査報告によると一人前の大工が本格的な仕事をするのに必要な数(標準編成)として179点の道具があげられています。
近代期にあらたに出現ないし変化をおこす築用主要道具として,縦挽き・横挽き両用の鋸である両刃鋸,鑿の刃裏を平らに研ぎやすく工夫した裏透,削り面がざらざらになる逆目を防ぐために鉋刃を二枚入れた合せ鉋(二枚鉋),ネジの利用により微調整を容易にした「機械鉋」,ボルト錐などがあげられます。以上の変化を通観するとき,近・現代における建築用主要道具は,「美に奉仕」する道具において,より精巧な加工を可能とする機能分化が進行した,と言われています。
以下にその具体的事例のいくつかを紹介したいと思います。
機械製材の導入と木挽の減少

図2 前挽鋸
原木を2人掛かりで縦に挽き割る大鋸に代わって,「前挽鋸」を用いる「木引」が出現したのは16世紀後半頃と考えられており,その後,江戸時代を経て昭和時代前期まで盛んに用いられます。操作方法は江戸時代の絵画資料や近代に撮影された古写真にも多く確認されるように,ななめに立て掛けた木材を縦に挽いている姿があります。かつて板をつくることは大工の徒弟が修業として行う超重労働でありました。
この作業で使われたのが前挽鋸であります。その形状は時代によって変遷しますが,近代では一般的には身幅が広く,柄の取り付け角度が斜めであり,峯が大きく湾曲するものとなります(図2)。

図3 1900年ごろの輸入製材機
『木材工業史話』(林材新聞社出版局 1950より)
しかし,幕末から明治初期に欧米から製材機械が導入されて木材の機械加工がはじまると,徐々に手挽きによる製材がなくなっていき,特に日露戦争以降は木工機械の飛躍的な増加が見られ,こうした機械の導入により木挽職の仕事は急速に奪われていきます(図3)。しかし,手挽きによる製材がなくなったわけではありません。さまざまな寸法の材料など,細かな要求に答えることのできる手挽きによる製材は昭和時代前期まで用いられています。
両刃鋸の出現

図4 片刃鋸(左)と両刃鋸(右)
従来,わが国の鋸は,古墳時代の一部を除いては,すべて片側にのみ鋸歯を刻みつけた,いわゆる片刃鋸として発展してきたものであります。近代になるとこの両者が融合一体化して鋸身両側に縦挽き,横挽き双方の刃が付いて今日見るような両刃鋸として発展していきます(図4)。両刃鋸とは大工が便利に持ち歩けるよう1本で2つの機能を持たせたもので現在では替え刃式が主流です。
近年の研究によると,大型で大工が使用し得る両刃鋸の出現は明治30年代に絞ることができるとされ,その背景として特に製造過程における熱処理技術の改善など,製造技術の改善や進歩に拠るところが大きかったとされています。
機械的な鉋の出現

図5 基市決鉋

図6 機械式溝鉋
明治時代になって著しく機能が多様化・複合化し始める大工道具として溝形をつくる鉋である「溝鉋」が挙げられます。
用材の組み合わせやはめ込みのため,長い用材に溝形を加工する行為は室町時代には見られるといいます。近代に入ると西洋近代建築の導入とともに,溝形をつくる鉋も大きな変革を受け,機能に応じた形状の変化,また目的に合わせた多様な形のものが派生していきます。罫引刃や定規版をつけるなどして,近世以前では手加減に拠るところが大きかった溝加工が,より正確に機能化されたものになります。定規をクサビ一本で移動できるように工夫された「基市決鉋」(図5)、あるいは日本の技術要素として長らく欠落していたネジを取りつけて,鉋の定規として台や刃の位置を調整できるようにした溝鉋も登場します。この種の溝鉋には,「機械決」,「機械鉋」などと「機械」の語を冠して呼ばれてもいます(図6)。
ネジの利用は溝鉋だけではなく,面取鉋でもみられ,面の角度や深さを保つため,刃幅や台木の間隙を調整するのに使われるようにもなります。
合わせ鉋(二枚鉋)の出現

図7 二枚刃鉋(左)と一枚刃鉋(右)
現在の鉋の多くは,刃の裏にもう一枚の刃(裏金)が合わせてあります。合わせ鉋とも二枚鉋とも呼びます(図7)。これは刃の食い込みや逆目を防ぐかんな独特の機構であります(図8)。
わが国で二枚鉋が一般に使用されるようになったのは明治30年代からで,洋風鉋から影響を受けて考案されたものとされています。洋風鉋にくらべて構造は少し違いますが,逆目防止の原理はまったく同一です。
現在の裏金は両上端を内側に折り曲げて刃裏に接していますが,古い二枚刃鉋では,両肩にリベット状の鋲を取付け,丸い頭で刃裏に接していました。さらに古いものでは,裏金には小穴が開いていたといいます。それは当時手近にあった刻み煙草用の煙草包丁を刃裏に取り付けたのもので,煙草包丁の耳の紐通しの丸い穴がそのまま,鉋の裏刃の形式として昭和の御代まで続いたものだとされています。
ボールト錐・ハンドル錐

図9 ボールト錐

図10 ハンドル錐
明治にはいって洋風建築とともに本格的なネジや歯車の原理を使用した道具や接合法が入ってきました。このためネジの形をしたボールト錐(図9)や,ハンドル錐(図10)などの西欧伝来の道具も使われるようになります。これにより太くて深い穴をあける道具が編成に加わり,和風建築にもボルトやナットによる部材接合法が広く流布することになります。
名工の出自と活躍
良い仕事をするには良い道具がなければなりません。大工が万金を払っても良い道具を求めるのは当然でありましょう。それに応えて道具鍛冶も優れた道具を作ろうとします。単なる道具の域を越えた大工道具の名品も生まれ,明治から昭和にかけて,こうした名工の名も知られています。千代鶴是秀,石堂などはその代表的な人たちであります。
こうした名工の号は全国的に名を知られ,代々商標として伝えられていくようになります。
第2次大戦までに道具の産地も兵庫県の三木,新潟県の三条周辺にとほぼ固定するようになります。
本稿の作成にあたり
本稿作成にあたり,㈱奥谷組 展示資料館にて大工道具の撮影,併せて同社関係者に資料提供や大工道具に関する様々なご教示をいただきました。記して謝意を表します。
また,近現代における大工道具の変遷については,諸先学の研究成果に依拠しており,一連の報告および論文等は以下に列記するとおりとなります。さらに詳しい情報を得たい方は資料閲覧など活用をされることを願います。

図11 株式会社奥谷組 展示資料館
所在:京都市南区吉祥院向田東町
≪株式会社奥谷組 展示資料館について≫(図11)
伝統的な堂宮系建築技術を広く一般に紹介する展示館。継手や仕口を中心にその模型を製作し,写真や図解に解説を添えて展示している。そのほか館内には設計図面や構造模型,建築儀式祭具や瓦,金物類のほか,今回焦点をあてた各種大工道具にまで幅広い展示内容となっている。
≪参考文献一覧≫
●船曳悦子「近現代における鉋の変遷」(『日本建築学会技術報告集 第17巻 第37号』所収),2011年
●星野欣也・植村昌子「近世・近代における前挽鉋の変遷について 小林コレクションに見られる「七郎右衛門」前挽鋸を中心に」(『竹中大工道具館研究紀要 第19号』所収),2008年
●船曳悦子「両刃鋸の出現時期について」(『日本建築学会技術報告集 第15巻 第31号』所収),2009年
●沖本弘「溝形をつくる鉋の形と機能」(『竹中大工道具館研究紀要 第7号』所収),1995年
●松村貞次郎,高橋裕『ビジュアル版 日本の技術100年 第6巻 建築 土木』,筑摩書房,1989年
●日野永一『日本の技術7 木工具の歴史』,第一法規出版,1989年
京都の文化遺産を守り継ぐために 「障壁画の維持管理と修復」

長得院 境内
長得院は京都御所の北側に位置する臨済宗相国寺の塔頭であり、応永中期に設立された。開祖は五山文学で有名な絶海中津の弟子で鄂隠慧奯(仏慧正続国師1357~1425)であり、足利五代将軍義量の塔頭となった。寺基は以後600年間移動していないが、幾度も火災に遇い現在の建物は天明の大火後の天保年間に建てられたものを主体とし、方丈も同様であり、襖絵もこの時期に整備されたものである。

方丈 襖絵

方丈 襖絵
方丈には、江戸後期に一派を成した岸駒の婿養子で平安四名家の一人として知られ、山水花鳥画を得意とした岸徳(号 連山1804~1859)の筆による絵画が52面描かれている。筆者の岸徳は、岸駒の後岸派の代表格として京都を中心に活躍し、安政度御所造営(1855頃完成)の障壁画制作に参加し現在も京都御所内にその襖を見ることができる。他に弘化3年(1846)岸岱とともに制作した兵庫豊岡の隆国寺の障壁画もあり、当時の高い評価の中で障壁画という大事業を次々手がけた様子がうかがえる。なかでも本襖絵は岸徳の単独制作であり、その代表作といっても過言ではない。ここでは岸派の筆法を受け継ぎながら、より柔和で装飾的な要素を強めたその画風がよく表れている。これまで研究者にもその存在は知られなかったが、本作品は彼の画業を知る上で、また幕末の京都画壇の動向をうかがう上で欠かせない資料と目される。
江戸時代に円山応拳の指導や影響のもとで江戸後期の画壇を支えた重要な画家に呉春・岸駒・原在中がいるが、応拳の没後それぞれ四条派・岸派・原派という当時の京画壇を支えた大きな流派を形成する。そのうち原在中の作品派は本山の相国寺に多く残るが、長得院の方丈襖絵はすべて岸徳のものであり一連の作品は岸派の重要な資料となるものであろう。

修復前後の襖絵の状況:修復前

修復前後の襖絵の状況:修復後(部分)
当院は本山の塔頭寺院であった為、周囲の景観の状況が良く、門を入ってから唐門付の方丈に到るまでの景色は江戸末期のままであると思われ、周囲の景観も邪魔な近代的なものは殆ど視野に入らない誠に恵まれた状況にある。
唐門より方丈に入って最初の右手にある杉戸には雪の積もった針葉樹にとまった鳥が描かれ、最初の下間二之間には水辺で母虎と遊ぶ虎児が描かれ、下間一之間には四人の老人図があり、中央の室中の間には山水図が描かれ上間二之間には波涛に鷲が描かれており、上間一之間では趣きが変わり花鳥図が描かれている。
いずれの絵も人に圧迫感を与えず、かつ昂揚感に引きこむこともなく、方丈に上ってから移動するにつれ訪問者を落ち着かせかつ厳粛な気持ちにもさせ、最後には身近な花鳥図としてくつろがせる様にテーマが設定されていることが判る。
しかし誠に悲しいことには、現状は変褪色や本紙破損、乾燥による大きな亀裂もみられ、ことに間似合紙を使用しているため、紙が細片粉末化して剥落するなどの劣化が急速に進行し深刻な状態になっており、襖を外し日光の直接当たらない場所に移すなど種々に心を悩ませてはいたが、有効な安心できる対策などはできず、思案にくれるばかりであった。今回補助金を支給していただき修理にふみきることができたのは、関係各位の御高配のたまものとの心より感謝しております。
京都の文化遺産を守り継ぐために 「神泉苑の歴史と保存への取り組み」
神泉苑の創建

神泉苑
神泉苑は今を去る、千二百十数年の昔、延暦13年(794)、桓武天皇が平安京を造営されたとき、造営されました。神泉苑のこの場所には多くの池沼が存在し、平安京の都市計画に併せて天皇の遊宴の庭園として造られたものであり、一般庶民は入苑を許されないという意味で「禁苑」と呼ばれました。
境内の規模は、北は二条大路、南は三条大路、その間には、押小路、三条坊門小路(後に御池通とよばれる)姉小路が存在します。
東は大宮大路、櫛笥小路そして最西の壬生大路に至ります。面積は約十万㎡に及びます。境内の東北にある「神泉」から涌き出た水は、小川を通って大池にそそぎ、池畔の乾臨閣を正殿にして、左右に楼閣や釣殿、滝殿が配置されていました。歴代の天皇、貴族が行幸されました。
平成3年から行われた地下鉄東西線工事に伴う発掘調査の際、遣水の流路や、船着き場の木材などが発見されました。また、緑釉瓦(大極殿などに使用された)も発掘されています。
神泉苑造営から6年後の延暦19年(800)には早くも桓武天皇の行幸がなされ、以後、正史に表れるだけでも31回、神泉苑に遊ばれています。桓武天皇にとどまらず、嵯峨天皇も神泉苑に行幸を重ね、弘仁3年(812)には嵯峨天皇が行幸され、平安京における日本ではじめての天皇の観桜の宴が神泉苑において行われました。
神泉苑の宴遊に、弘法大師空海も同席されたと思われます。
空海の『性霊集』(図1)には「秋の日、神泉苑を観る」として
最初の二句で神泉苑に訪れ感銘を受けたことが歌われ、後の六句で神泉苑の魅力と嵯峨天皇のお徳への帰依が伺えます。

図1
霊場としての神泉苑
この、天皇行幸の場としての、神泉苑が徐々に変化した契機となるのが、空海による雨乞いです。天長元年(824)、日本中の日照りの際、空海は天皇の命を承け神泉苑において北天竺の善女龍王を御勧請(招き)請雨経法を修され、その結果沛然として雨が降り、善女龍王は神泉苑の池に止まることとなりました。これを契機に神泉苑は祈雨の霊場として喧伝されるようになりました。
その後、幾度もの火災や荒廃や二条城造営のため、縮小を経ますが、1600年頃に現在の神泉苑が形づけられたものです。広さは、約6600㎡です。
文化財維持への取り組み
神泉苑の鐘楼堂

図2 修復された鐘楼堂
神泉苑鐘楼堂(図2)はもともと、境内西南の隅にあったものを、昭和38年の災害復旧と共に現在の神泉苑北東に移築されたものです。鐘楼は宝永の絵図に確認でき、梵鐘は正保3年(1646)に神泉苑中興の祖、快我上人によって鋳造されたものです。

図3 梵鐘
梵鐘(図3)の材質は青銅の鋳造で、高さ133㎝、口径76㎝、鐘身は上帯・中帯・下帯の三本の横帯で水平に区切られ、垂直にも縦帯で区切られます。縦帯は四本で、縦身をたてに四分割します。
上帯と中帯の間の空間は上部は「乳の間」、下部を「池の間」と呼びます。神泉苑の梵鐘には「乳の間」には「乳」と称する突起状の装飾を縦横五個ずつ計百個つけています。「池の間」には銘文と、蓮華座に載った梵字が刻まれています。
銘文には
神泉苑中興の祖、快我上人により鋳造された。施主は千蔵院、
釜座の名越(江戸の釜師名越善正の家系)出羽大極入道浄正
正保三年(一六四六)三月吉祥日に法印権大僧都實祐が敬って 申す と刻印されています。
神泉苑での梵鐘の主な役割は法要や、祭典の行事の予鈴として撞いたり、除夜の鐘として地域の善男善女の方々に親しまれています。第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、日本の多くの梵鐘(約九割)が供出されましたが、幸いにもその難を逃れました。
その音色は、錫の合金比率で決まると言われています。音程を測定したところ「C-ド」の音と判明しました。私ども真言宗の僧侶としましては声明のさい、頭(リーダー)のとる音程が重要となりますので、予鈴に撞いた梵鐘の音を基本にして僧侶が頭をとったと思われます。
鐘楼堂修復へ
長年の風雨及び落葉や枝の落下による損傷などによって雨漏りし化粧垂木などをいためていました。京都市及び京都府の担当の指導を仰ぎ、平成24年2月に着工し、3月に竣工しました。
工事にあたっては、着工前の記録と、瓦及び木組みで再生可能ものを選別保存の方向を打ち立て、古瓦は約50%を日当たりの良い、東流れ、及び南側に再用しました。工法としては現状の土葺きですが、空葺きとし、軽量化をはかり、新調する瓦は、岐阜産の耐寒瓦とし、焼成温度1150℃以上、吸水率8%以下のものとしました。
(施工の資料は業者、竹村瓦商会、福井工房より頂きました)
お陰様で無事竣工し、行事の予鈴、除夜の鐘等に撞かせて頂けるのをたのしみにしております。
なお、今回の修復事業には、鐘楼堂関係が560万円、周囲の樹木の整備に80万円がかかりましたが、京都市文化観光資源保護財団様と、京都府文化資料保全関係から助成金を過分に頂戴して感謝しております。
神泉苑の境内には他にも補修すべき建造物が数点ありますので、長期的に計画を立てる所存でございます。皆様方のご協力を賜りますようお願い申し上げます。
特集 京の近代仏堂 その3 「近代的様式の模索」
はじめに
前回号(『京の近代仏堂』-その2-)では古社寺修理の開始と平行して,およそ明治30年代より出現する古代,中世建築に様式的な範を得た仏堂建築を「復古主義」として取り上げました。
その設計には古社寺修理を経験した建築家が多く関わっていましたが,彼らは歴史的建築の意匠の折衷やその復元の試行・遂行に留まらず,さらに復古を超えて伝統的意匠・形態を再構成しながら積極的に新意匠の創造に踏み込んでいきます。
そしてこの急先鋒としては,前回号でもご紹介した京都府技師亀岡末吉(1865‐1922)が挙げられます。「亀岡式」と称されるようになるその作風は,建築の概形は古建築から引用しつつ,欄間等を埋める彫刻に伝統意匠を抽象化,変形したもので置き換えるものでありました。その作風は,古社寺修理技術者や内務省を経て,全国に流布していきます。
しかしながら,市内の近代仏堂遺構を展望してみると,「亀岡式」に代表される独創的な細部意匠の展開に留まらず,その設計の特徴として全体の格好やプロポーションの巧みな構成をもつものも多くみられ,かつて登場したことのない仏堂建築を細部のみならず建築全体として編み出そうとする作者の強い意識も看取することができます。特に大正から昭和戦前期にかけては以上の傾向は顕著なものであったとみられます。
今回は,この種の日本近代期特有の表現的特徴を併せもつ仏堂建築を「近代的様式の模索」として取り上げ,京の近代仏堂がどのように前近代を継承し,一方新たな建築的変容をどう見せていったかその成立と展開の実態について,3件の具体事例を取り上げながらその一端を紹介してみようと思います。
鞍馬寺寝殿 京都市左京区鞍馬本町
鞍馬寺は鞍馬弘教の大本山であり,鞍馬川を脚下に見る鞍馬山南中腹に位置します。宝亀元年(770)鑑真の高弟鑑禎上人が一庵を草創し,延暦15年(796)藤原伊勢人の時に鞍馬寺を創建したと伝えます。
鞍馬寺は実に火災の多い寺院であったため,江戸時代以前の建造物は伝存していません。明治維新後は本堂(明治6年=1873),仁王門(明治44年)の再建,大正11~13年(1922~1924)にかけて本堂の修理,護摩堂の再建などが成り往古の姿を整えはじめましたが,昭和20年(1945)に堂舎の大半が焼失してしまいます。その後再び山容復興に邁進することにより現在の伽藍の骨格が形成されています。
寝殿は大正期の復興建築遺構です。敷地は本殿への石段を登りきる手前の石垣上に選定され,大正12年7月に上棟式,同年10月に竣工を迎えています。設計は当時奈良県技師の岸熊吉(1882‐1960),監督は細見藤吉が担当しています。

図1 寝殿全景
建物は住宅風の洗練された優美な建築で,主要部を桁行8間,梁行5間の規模をもつ東西方向の入母屋造,銅板葺(元は桟瓦葺)とし,西方に縋破風造の庇をかけ諸室を付加,東妻の南寄りに切妻屋根を突き出し寝殿への出入口と同時に南に広がる庭園との仕切とします(図1)。

図2 寝殿内観 手前から中央板間、西端上座を見る。
平面は3室を東西一列にならべ,それぞれ北側に奥行き1間の室を付設,入側縁をめぐらせて主体部を構成します。南に吹放ちの広縁を付け,周囲に落縁をめぐらせます。中央室は板敷で24畳大と広く,略儀の仏事をここで行います(図2)。西端の9畳は上座の間となり床と帳台構を設けます。その北に床面を一段高くして長4畳の上段の間とし,壁面折矩に違棚・付書院を装置しています。
寝殿は書院造と寝殿造のおもしろい交流をみせています。広縁東端に板間を突出させ,客人の出入口となし,柱間装置に妻戸(両開き戸)に並ぶ横格子の櫛型・連子窓を設けた壁面をつくる構成は,公家住宅一般にみる中門廊を象徴するもので寝殿造のおもかげをよく残しています。建物内外を隔てる建具として蔀戸を多用し一部に妻戸を用いていること,周囲の落縁に高欄をめぐらしている点,いちだんと寝殿造に接近したものとなります。

図3 上座および上段の間
しかし,内部は西端室を上座に3室を一列に並べた対面所にも通じる形式とし,上座・上段の間には床・棚・帳台構・付書院を配し,天井を折上小組格天井にするなど,完全に書院造の方式をとります(図3)。つまり外形には寝殿造の名残りがかなり残っていますが,内部は完全に書院造の手法にしたがっているのです。
内部の細部意匠は,各室境の内法長押の上に入れる彫刻欄間の透彫,上段の間の違棚の構成,各所の金具文様などにて書院の一律的な形式からはなれた新鮮な感覚をもって意匠を展開させています。
寝殿の大きな特徴は,歴史的建築の復元を遂行するという受け身としての継承ではなく,平安後期に大成された寝殿造と中世以降の書院造を現在の建物に応用し独自の木造建築を現出している点にあると言えます。近代日本建築が伝統的建築への理解と創造的展開を具体的な堂宇造営を通して見せた重要な実践例として,かつその秀作として注目される作品です。
知恩院納骨堂 京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町
浄土宗総本山である知恩院は華頂山麓に位置します。浄土宗開祖法然上人源空の入寂の地にあたり,境内に多くの堂舎伽藍を有する洛東の巨刹です。徳川家康の時期以降,寺地の拡造成が進められ主要建築が立ち並び,なかでも法然上人の御影を安置する御影堂(本堂)は寛永16年(1639)の再建で,桃山風の名残りをもち正面柱間11間にも及ぶ広壮な建築として諸堂の中核を占めます。

図4 納骨堂全景
納骨堂は御影堂の東南方,放生池に架かる石橋を東に渡り,石段を登り詰めた小高い森の中に均整のとれた美しい姿をみせています(図4)。善導大師の遠忌記念事業の一環として昭和2年(1927)に建設が決定され,同3年12月に立柱,同5年4月に落慶を迎えています。設計は前回号でもご紹介した京都府技師阪谷良之進が担当しています。
建物は石造基壇の上に建つ平面方形の一重裳階付の御堂で,その設計方針を平等院鳳凰堂に求めたとされます。裳階は方3間,蓮弁を刻む地覆石に面取柱をたて,各辺中央間は幣軸つき両開き板扉を装置(背面のみ板壁にて塞ぐ),左右の各間は連子窓に造ります。柱頭および中央柱間上に大斗を置き,平三斗で軒桁を支えます。
下層(裳階)屋根から上方へ覗く身舎は方1間,周囲に縁高欄を廻し,四隅と各辺中央に和様四手先組物を据え上層軒を支持します。軒まわりは上下層とも二軒とし,屋根は本瓦葺で上層を宝形造とし頂上露盤と四隅に金銅製の鳳凰をおき,下層屋根は縁高欄下から四方へ葺きおろします。

図5 納骨堂内観
内部は四半土間敷の間仕切のない空間で,裳階柱筋に身舎丸柱を4本立て,内陣を構成します。内陣後ろ寄りに来迎壁と須弥檀を構え,阿弥陀三尊を中心に諸仏を安置します。室内装飾に彩色が主体の華麗かつ濃厚な荘厳を尽くしています(図5)。

図6 下層(裳階)組物・軒廻り
建物は軒反り技法,組物様式,瓦当文様などからも設計の典拠を古典に求めていることがわかります。しかしその一方では波瀾曲折の妙を画しながらこれを崩してもいます。たとえば納骨堂の屋根は外観上二重となりますが,上層の軒先が下層より外方に多く出ているにも関わらず,建物の均衡が保たれ,落ち着いたかたちとなります。これは裳階屋根から上方に覗く柱を極度に低く抑えることにより,外観上上層の高さを下層に釣り合せ,柱上に複雑に積み上がった四手先組物の一手目を縁高欄の見え隠れにするという抑制・矯正処理がおこなわれた結果とみられます。
また下層の軒においては垂木のみならず茅負に至るまでごく大きい面をとり,互いを面内に含み込むように密着させるという変則的な処理がおこなわれ,およそ堂宮建築とは思われないほどの軒構成の軽快感が実現されています(図6)。
当建築は古式を遵守する立場と創造的な展開が共存しながらも,全体として整った調階を得て破綻なく纏められており,設計者である阪谷良之進の日本建築に対する技術的・様式的知見の充実ぶりや優れた造形感覚が伺えます。明治以降の仏堂建築形成へのさまざまな試みの系譜にあって,古格と時流の調和を深く示した近代仏堂の代表作として理解されることができるでしょう。
神護寺金堂 京都市右京区梅ケ畑高雄町
神護寺は和気清麻呂の創建になる高雄山寺を元とし,空海が入寺以来,真言寺院として寺基を整え,一大山上伽藍を形成したのにはじまります。中世の盛衰を経て後,近世初頭には寺勢を回復するも明治維新以降は一部の伽藍をとどめる状況でありました。昭和初期に至り寺門の復興に腐心するなか,これを知った実業家山口玄洞が大檀越となり,昭和8~10年(1933~1936)に復興事業を推進,専任設計技師として元京都府技師の安井楢次郎(1873‐1942)を充て,金堂をはじめ,多宝塔,和気公霊廟,茶室等を建立,毘沙門堂その他を修繕して現在の伽藍の基本が構築されました。

図7 金堂全景
金堂は神護寺の中心堂宇であり,境内西方の大石段上にその広壮な姿をみせます。昭和8年1月起工,同年7月上棟,同12月に竣工を迎えています。高い石垣基壇上にたち,桁行7間,梁行6間,屋根は本瓦葺で入母屋造とします(図7)。本尊に国宝・薬師如来立像を祀ります。柱はすべて丸柱で,外周柱間は正面中央3間および側面1ヶ所にて板扉を吊り,他を連子窓とします(背面は白壁にて塞ぐ)。建物四周には擬宝珠高欄を廻し,組物は和様三手先,軒は二軒繁垂木とします。

図8 金堂内観
堂の内部は密教修法を行する板敷の3間四方の空間を中核とし,その後方に本尊ならびに諸尊を祀る須弥檀を列し内陣を構成,この正・側面に外陣を廻らせています(図8)。内陣と外陣を境する円柱上には和様二手先の組物を組みます。二手先の組物で持ち出されたなかは外陣を小組格天井,内陣はこれを折上げとしています。建物は内外とも丹を主体に塗りますが,諸尊を祀る内陣一郭のみは黒漆を地色に極彩色装飾文を要所に施し,仏の境域内外で美しい対比を示しています。
全体の堂構成で特徴的なのは,堂内の間仕切りのない開放的かつ一体的な構成と内陣の正・側面を包み込む凹字型の外陣にあります。外陣巾は柱間2間と広く,更に一連に天井を張り,畳を敷き詰め,座居に適した落ち着いた空間であり,内陣を囲むことにより諸仏や修法との密接な距離感が生まれ,建築空間としても組物など内陣の正・側面を意匠的に見せることに供しています。

図9 内陣組物間の笈形
細部の意匠や技法をみると,外陣の天井周縁を飾る横連子,柱の隅延び,須弥檀格狭間にみる俗に「蝙蝠型」といわれる輪郭,軒丸瓦の蓮華文などに,古代・中世を基調に古格を遵守するという設計者のはっきりとした意識が感じられます。しかしその一方では,高欄や板扉へ打つ飾金物の図案的な文様,組物間の蟇股や笈形にみる極彩色の緻密な渦唐草などに自在で意欲的な造形や表現をみせています(図9)。
金堂の建築された昭和初期は,新たな仏堂建築の設計において積極的な創意工夫がもたらされ,所謂新興社寺建築の時代を構成し,若しくは構成しつつある時期にあります。金堂における内部空間の巧みな構成,また歴史的文脈は尊重しつつ独創的な細部意匠を展開させる点は,設計者の安井楢次郎が堂宮建築に関して当代随一の意匠構成力を有していたこと,またこうした造営を可能とする京の堂宮系大工技術が確かに存在していたことを眼前に証明してくれます。
特集 京の近代仏堂 その2「復古主義」
はじめに

図1 平安神宮
前回(『京の近代仏堂』―その1―)に引き続き概ね明治から昭和戦前期までの京都の近代寺院建築に焦点を当て,その特質を取り上げてみようと思います。
前回では近世までの伝統的な建築技術をベースに堂舎の復興を進めたものを中心に「近世の継承と昇華」として取り上げました。
今回はこの他に,京の近代仏堂を特徴づける大きな流れとして,建築家が関わる建築で古代,中世,あるいは桃山期の意匠が再現された造形をもつものを「復古主義」として取り上げてみようと思います。
京都における復古様式の先駆けとなったのは,明治28年(1895)造営の平安神宮とみられます(図1)。諸部材の形状とプロポーション,細部の絵様・形において近世的なものが排され,古代の建築に近いものにする努力がなされています。実施設計は明治から昭和初期の建築家・建築史家で日本建築史の基礎を築いた伊藤忠太(いとうちゅうた)(1867-1954)があたっています。建築史研究が緒についたばかりの当時にあって,この模造大極殿の設計をなし遂げたことは偉大な業績であったというべきでしょう。
その後京都では本格的に復古寺院が動き出します。その契機となったのは明治30年より開始された古社寺保存法による古社寺修理に伴う古建築の意匠・技術変遷の研究と体系化,つまり日本建築史学の熟成が大きく関与しているとみられます。
京都府は奈良県とともにその起点をなしますが,古社寺修理に関わる監督技師や建築史家のなかには社寺建築の新築設計にも積極的に携わる人物たちが現れます。彼らはその設計の際に自身が体得した建築史学の成果の応用を試みました。すなわち,様式史にもとづく擬古的な意匠・構造が採用され,柱の隅延びなどの技法,鎌倉時代風の意匠をもった蟇股(かえるまた),禅宗様風の拳鼻(こぶしばな),安土桃山時代の建築を意識した豪華絢爛な装飾などを建物に展開させるのです。これらの寺院建築は,近代学術知である建築史学のひとつの到達点を示しており,「京の近代仏堂」を特徴づける大きな流れとして評価できます。
今回はこれら近代の復古主義仏堂建築のうち,正法寺遍照塔,心城院岸駒堂,東福寺本堂の3件を取り上げ,具体的にその特徴についてみてみたいと思います。
正法寺遍照塔 京都市西京区大原野南春日町

図2 遍照塔全景
正法寺は洛西大原野,大原野神社より南に一渓をへだてた南春日町にあります。法寿山と号する真言宗東寺派の寺院で,大原野の山野を借景とする見晴らしの良い境内に本堂・客殿等の建築が配置されています。
遍照塔は境内の北西,石垣に築かれた小丘に建ち秀麗な姿をみせていますが(図2),平成20年に当地に移建されたものであり,以前は京都東山霊山観音駐車場に建っていました。元来は日清・日露戦争の戦没者慰霊の為,明治41年(1908)に京都府により建設されたもので,移築前には「忠魂堂」と縦書きに大きく陰刻された扁額が上層に揚げられていました。
設計主任に亀岡末吉(1865‐1922)が担当し,明治41年3月に起工,同年9月に竣工しています。設計者の亀岡は東京美術学校で日本画を専攻,卒業後は内務省の古美術調査等に従事し,明治40年以降,京都府及び滋賀県の技師として本格的に古社寺の修理に関わります。設計活動に至るまで美術一般の修練を積んでいたことも関係してか,特に彫刻絵様に独自のデザインを確立させ,彼の華麗な彫刻意匠は「亀岡式」と名付けられ,模範的な作例として当時の建築界に大きな影響を与えました。遍照塔はこの亀岡の処女作と位置づけられています。
塔は六角ニ重塔という,特異かつ稀有な形態をもちますが,全体的によく均衡が取れており,変化と調和の妙を得て興趣を感じる建築です。周囲に高欄をめぐらせた六角石造基壇の上に建ち,下層は基壇の上に側柱を立て六角平面を構成させます。各面一間で側柱通りが柱間吹放しになり,中央に蝋色塗の六角須弥檀・厨子を設け,この内部に碑を安置します。
上層は下層よりも縮小された平面をもち,各面の柱間装置は縦連子窓と板扉を交互に設け,塔身の周囲には縁高欄を設けます。軒まわりは上下層とも大面取角垂木を疎らに配置し一軒の平行垂木とします。屋根はチタン葺(元は桧皮葺)で宝形造,頂に露盤を伏せ,金銅製の宝相華を花弁状に重ね,御光・鷙鳥を加えた極めて特異な屋頂飾りをもちます。
軸部はすべて丹塗とし,琵琶板・軒裏板などの板類を胡粉塗に仕上げ,垂木・隅木の鼻に美しい透彫の飾金具を打って装飾しています。

図3 遍照塔近景 柱の胴張り,組物・高欄の様式に古式意匠の採取が認められる
塔の意匠には古代から中世にかけての寺社建築様式が採取されています(図3)。下層の円柱は膨らみをもち,飛鳥時から平安前期にその遺例のある「胴張り」とし,組物肘木ではその木口において強い彎曲があり,下端の線も端から端まで一気につづいた曲線をなすもので,法隆寺の諸建築にその事例をみます。蟇股は平安後期から室町時代以前の遺構のそれに共通し,上層の高欄は斗束が下の広がった撥形になり,奈良時代後期まで遺例が認められる組高欄に範をとります。
亀岡は和風建築に独自のデザインを確立させた明治時代和風建築革新の先覚者として評されますが,彼の処女作とみられる本建築のつくりからは当時の古代・中世建築研究の進歩を基盤に,江戸時代の様式を極力廃し,或は鎌倉平安に遡り或は奈良飛鳥に往き,新様式を建設することに努力している様が伺えます。つまり彼の孤高の和風建築スタイルもやはり広範囲にかつ多様な復古意匠を折衷させるという,明治中期以降の建築家と同一の方法から出発したこと示しており,本建築は古今の意匠が溶け合い,統合・昇華する以前の近代社寺建築の様式確立に向けた胎動がうかがえる極めて貴重な遺構といえます。
心城院岸駒堂 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町

図4 岸駒堂全景
心城院は法華宗陣門派の本山である本禅寺寺域にある塔頭です。江戸時代後期の絵師である岸駒の菩提寺でもあり,墓地には長子岸岱・連山以下,岸家一族の墓があります。境内地の北西,本堂脇には岸駒の木像を安置した小堂を構え,これを「岸駒堂」と称しています(図4)。
当建築は大正12年(1923)の建築で,設計者は阪谷良之進(1883-1941)です。阪谷は大正から昭和初期にかけて奈良・京都にて文化財修理技師を歴任,その後文部技師として全国の古社寺修理の監督を務めた人物で,設計作品も多く遺しています。京都での主な実績をみると豊国神社摂社貞照神社本殿(大正14年),知恩院納骨堂(昭和4年),平安神宮大鳥居(昭和4年)などが挙げられます。
堂は2間四方の小規模な祠堂であり,低い基壇上に建ち,平面は正方形とし,内部を前後2区に分け,前方を吹き放しの拝所に,後方を内陣としています。内陣は瓦敷土間に蝋色塗の壇を設け,壇上に厚畳および褥(しとね)を重ねて,岸駒像を安置します。組物は簡素な大斗肘木組とし,軒は一軒で疎垂木,緩やかな真反りをみせ軽快な表現を示します。屋根は宝形造・桟瓦葺とし,頂上に青銅の宝珠露盤を載せます。
建物の概形は京都近郊にある小規模祠堂のいくつかを参考に設計が進められたようで,近世までの伝統を素直に継承しているかに見えますが,細部をみると意識的な復古を含んだ造形をみせていることがわかります。

図5 正面蟇股 鎌倉期に発生した内部飾に図案的左右対称の彫刻をもつ刳抜蟇股を基本とする。
正面扉上の蟇股は鎌倉期に発生した内部飾に図案的左右対称の彫刻をもつ刳抜蟇股を基本とし(図5),垂木・桁木口の透彫金具の文様は古代建築にみる大陸様式の入った太く力強い忍冬唐草文様を示しています。長押に取付く六葉金物は厚み薄く,猪目が大,樽の口は太く短いなど,鎌倉時代に定型化する古式六葉金物の特徴をよく示します。
またこの堂の復古的志向は以上の細部意匠にとどまらず,建築各部の寸法や納まり,つまり構造技術まで及んでいます。例えば組物は柱上の大斗に舟肘木を組み,桁を載せ,垂木を架けますが,柱,肘木,桁と上方に組むことにしたがい断面の幅を狭くしています(図6)。

図6 虹梁絵様・桁取合部 垂木・桁木口の透彫金具,肘木・桁の木割に古式が,一方で虹梁の絵様彫刻に新様式の創造が認められる。
これは中世以前の社寺,あるいは近世初頭の書院造りにまで継承された技法です。また長押の成(幅)は小さく,柱径の約50%としています。長押の木割(部材寸法の割合)は上古は細く,12世紀頃より太くなりますが,岸駒堂の長押寸法の割合をみると例えば平安時代末期建立の醍醐寺薬師堂(伏見区,1124年)に近いものを示します。これらは意匠的に退化する以前の古式仏堂建築の木割の再現を図ったものとみられます。
一方で,以上にみる復古的な志向を超えた新しい意匠の創造にも踏み込んでおり,例えば正面虹梁の絵様彫刻は伝統的な様式から離れ,その線様は流暢で運動感に満ち,軽やかなものとなります。おそらく設計者が古典を規範におきつつ自由に腕を揮ってその曲線を描いたとみられますが,この種の彫刻文様の鮮やかな捌き方は,およそ明治後期以降の仏堂建築の細部意匠に多く現れており,近代仏堂の細部意匠を彩る新様式の一例ともいえます。
当建築は建築構造・意匠を古建築からの引用により復古調に違和感なくまとめると同時に,伝統意匠を再解釈のうえ,新しい造形への転換を図ろうとする近代の古建築技術者の意欲がみてとれる作品として貴重です。
東福寺本堂(法堂) 京都市東山区本町
東福寺は臨済宗東福寺派の大本山です。鎌倉時代前期の嘉禎2年(1236)に九条(藤原)道家が東山に一大伽藍の建立を企て,名も東大・興福の一字ずつをとり,東福寺となづけたのがはじまりです。鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて相次ぐ火災に遭い主要伽藍を失うことになりますが,室町時代中頃に伽藍の復興は果たされ,中世から戦国期にかけて他の五山が兵火に遭って伽藍が全焼しているのに対して,中心伽藍は幸いにも戦火を免れて近世を迎えています。しかし明治14年(1881),方丈からの出火により仏殿・法堂・庫裏等を全焼し,貴重な中世伽藍の中核建造物を失うことになります。火災後,ただちに再建の準備に入り,まず明治23年に方丈を再建,その後明治40年代に恩賜門,庫裏を建て,本堂は仏殿と法堂を兼ねる大建築として昭和9年(1934)4月に竣工しています。
本堂は大正3年(1914)から再建計画が練られ,初期には京都の近代寺院建築に活躍した堂宮大工,稲垣啓二(1848-1917)が設計を担当していましたが,計画の後半には稲垣が病で倒れたことも重なり,当時京都帝国大学工学部教授で建築史家の天沼俊一(1876-1947)が顧問として設計に参画することになります。
天沼俊一は建築史研究・教育とは離れた,実際的な建築設計家としても活躍しており,道明寺本堂(大正8年 大阪府藤井寺市),高野山金堂(昭和2年 和歌山県伊都郡高野町)、本能寺本堂(昭和3年 京都市中京区),四天王寺五重塔(昭和15年(同20年焼失) 大阪市天王寺区)などの名作を創造しています。

図7 本堂(法堂)全景
本堂は壇上積の基壇に建ち,外観上二重の屋根をもちます。構造形式は五間三間・一重裳階付,従って裳階の柱間は正面七間・側面五間の大建築で,昭和期の木造仏堂としては最大級のものでしょう(図7)。

図8 本堂内観
内部は一間通りの裳階の内側を内陣(身舎)とし,高く仰がれる天井には堂本印象による雲龍図が描かれ,床はすべて瓦を敷いた四半敷とし,身舎中央後寄りに須弥壇を据えます(図8)。用材には台湾檜が用いられています。

図9 本堂組物・軒見上げ 組物を挿肘木とし組物間を通肘木で連結,垂木は「隅扇垂木」とするなど大仏様の要素を多く含む。
本堂は禅宗本山の中核をなす仏堂でありながら純粋な禅宗様ではなく,大仏様という建築様式の要素を多く採り入れています。すなわち,組物を挿肘木(柱に挿し込んだ肘木)とし組物間を通肘木で連結,また垂木は隅だけ放射形になる「隅扇垂木」にしていることなどはその特徴をよく示すものです(図9)。
大仏様とは,上醍醐の僧の俊乗坊重源が鎌倉時代前期に採用した建物の構造自体を意匠とした建築様式で,同寺三門(室町時代中期建立)もこの例に属しますが,明治14年に焼失した仏殿もやはり既往の研究や文献史料から大仏様を基調としていたことがわかっています。本堂の再建にあたっては基本となる建築様式を焼失した旧仏殿,あるいは眼前の三門に倣ったものとみられます。
建築の装飾的細部に目を向けると,様式にこだわらず中世から近世初頭の堂塔のそれを参考にして纒められています。たとえば木鼻には鎌倉後期折衷様の仏堂にみられる若葉を薬研彫に表現した意匠とし,破風の妻飾にみる大瓶束とそれに付する唐草・笈形の形姿は装飾的に発達する以前の室町期にその類例がみられ,懸魚は桃山時代に完好形として出現する三花懸魚の特徴をよく示すものとなります。したがって各々の細部の時代様式には多少の幅が出てくることになりますが,各時代を代表する建築細部の「美」を取り入れ,本堂全体のより完成度の高い意匠構成の創造を試みた天沼の意図を見出すことができます。
本建築は近代に進展した大規模仏堂の造営技術とともに,当時の建築史家による古典引用による復古調の細部や様式をみることのできる近代京都の代表的な仏堂建築と言うことができるでしょう。