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京都の文化遺産を守り継ぐために 「障壁画の維持管理と修復」
緒方 香州
長得院は京都御所の北側に位置する臨済宗相国寺の塔頭であり、応永中期に設立された。開祖は五山文学で有名な絶海中津の弟子で鄂隠慧奯(仏慧正続国師1357~1425)であり、足利五代将軍義量の塔頭となった。寺基は以後600年間移動していないが、幾度も火災に遇い現在の建物は天明の大火後の天保年間に建てられたものを主体とし、方丈も同様であり、襖絵もこの時期に整備されたものである。
方丈には、江戸後期に一派を成した岸駒の婿養子で平安四名家の一人として知られ、山水花鳥画を得意とした岸徳(号 連山1804~1859)の筆による絵画が52面描かれている。筆者の岸徳は、岸駒の後岸派の代表格として京都を中心に活躍し、安政度御所造営(1855頃完成)の障壁画制作に参加し現在も京都御所内にその襖を見ることができる。他に弘化3年(1846)岸岱とともに制作した兵庫豊岡の隆国寺の障壁画もあり、当時の高い評価の中で障壁画という大事業を次々手がけた様子がうかがえる。なかでも本襖絵は岸徳の単独制作であり、その代表作といっても過言ではない。ここでは岸派の筆法を受け継ぎながら、より柔和で装飾的な要素を強めたその画風がよく表れている。これまで研究者にもその存在は知られなかったが、本作品は彼の画業を知る上で、また幕末の京都画壇の動向をうかがう上で欠かせない資料と目される。
江戸時代に円山応拳の指導や影響のもとで江戸後期の画壇を支えた重要な画家に呉春・岸駒・原在中がいるが、応拳の没後それぞれ四条派・岸派・原派という当時の京画壇を支えた大きな流派を形成する。そのうち原在中の作品派は本山の相国寺に多く残るが、長得院の方丈襖絵はすべて岸徳のものであり一連の作品は岸派の重要な資料となるものであろう。
当院は本山の塔頭寺院であった為、周囲の景観の状況が良く、門を入ってから唐門付の方丈に到るまでの景色は江戸末期のままであると思われ、周囲の景観も邪魔な近代的なものは殆ど視野に入らない誠に恵まれた状況にある。
唐門より方丈に入って最初の右手にある杉戸には雪の積もった針葉樹にとまった鳥が描かれ、最初の下間二之間には水辺で母虎と遊ぶ虎児が描かれ、下間一之間には四人の老人図があり、中央の室中の間には山水図が描かれ上間二之間には波涛に鷲が描かれており、上間一之間では趣きが変わり花鳥図が描かれている。
いずれの絵も人に圧迫感を与えず、かつ昂揚感に引きこむこともなく、方丈に上ってから移動するにつれ訪問者を落ち着かせかつ厳粛な気持ちにもさせ、最後には身近な花鳥図としてくつろがせる様にテーマが設定されていることが判る。
しかし誠に悲しいことには、現状は変褪色や本紙破損、乾燥による大きな亀裂もみられ、ことに間似合紙を使用しているため、紙が細片粉末化して剥落するなどの劣化が急速に進行し深刻な状態になっており、襖を外し日光の直接当たらない場所に移すなど種々に心を悩ませてはいたが、有効な安心できる対策などはできず、思案にくれるばかりであった。今回補助金を支給していただき修理にふみきることができたのは、関係各位の御高配のたまものとの心より感謝しております。