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特集 京都の彫刻・工芸品 -1- 「上徳寺の木造阿弥陀如来立像」

京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課技師
山下 絵美

1.はじめに —京都市内の彫刻分野の文化財—

京都市内にはたくさんの文化財が存在します。美術工芸品の分野のひとつである彫刻(仏像・神像・肖像・仮面などがこれにあたります)についていえば、国宝が31件、重要文化財が297件、府の指定・登録文化財が15件、市の指定・登録文化財が61件あり(平成29年4月1日現在)、合計すれば実に404件にのぼります。このうち今回は、平成29年3月31日付けで京都市の新たな指定文化財となった、上徳寺の木造阿弥陀如来立像について取り上げます。

2.上徳寺と本尊縁起

[写真1]上徳寺木造阿弥陀如来立像が安置される塩竃山上徳寺えんそうざんじょうとくじは,京都市下京区本塩竃もとしおがま町に位置する浄土宗の寺院です[写真1]。五条通以南の富小路通りに面しますが,このあたり一帯の町名は、かつて「下寺町」とされ、豊臣秀吉による都市改造によって集められた寺院が立ち並びます。また、ここは嵯峨天皇の皇子・源融みなもとのとおるの邸宅である河原院の跡地でもあります。融は邸内に、陸奥の塩竈の風景を模してつくり,興じたという故事から,明治4年(1871)に現在の町名となりました。
寺伝によれば、上徳寺は慶長8年(1603)年、徳川家康によって建立された寺院で、側室の阿茶局を開基とし、伝誉一阿を開山とします。現在の本堂は、宝暦3年(1753)建立の禅林寺祖師堂が明治期に移築されたものです。
宝暦9年(1759)の奥書のある『塩竃山上徳寺本尊縁起』によれば、本尊である木造阿弥陀如来立像は、家康が鞭崎むちさき八幡宮(現在の滋賀県草津市矢橋)から招来したとされます。同縁起には、次のように記されます。
後鳥羽天皇の時代、木曾義仲が近江国に進軍し、それにより多くの人々が心を悩ませた。時の国主はこれを憂い、八幡宮に参籠して祈ったところ、八幡神があらわれ、西方極楽浄土の教主である我を彫刻するよう告げた。国主は歓び仏工安阿弥あんなみ(仏師快慶とされています)にこれを語った。安阿弥もまた深く喜び八幡宮に参籠したところ、光明の中に西方の三尊があらわれ、これを写して彫刻した。人々は歓喜し、再びこの地が治まった。それから380年を経た慶長8年、徳川家康が鞭崎八幡宮に参詣した際にこの縁起を聞き、中尊を乞い求めて上徳寺に寄付をした――。
現在、上徳寺境内の地蔵堂には、像高2メートルほどの石造の地蔵像が安置され、「世継よつぎ地蔵」として広く親しまれていますが、こうした縁起のある本尊もまた、有り難い本尊として守り伝えられてきました。

3.木造阿弥陀如来立像について

[写真2]京都国立博物館提供

[写真2]京都国立博物館提供

[写真3]京都国立博物館提供

[写真3]京都国立博物館提供

さて、本尊である木造阿弥陀如来立像[写真2]は、脇侍である木造観音菩薩立像・木造勢至菩薩立像とともに本堂に安置されます。本尊は鎌倉時代、13世紀前半の制作、両脇侍はともに、本尊にあわせて江戸時代につくられたものと推定されます。本尊の像高は97.3センチメートルで、いわゆる三尺阿弥陀とよばれる、鎌倉時代以降の標準的な大きさです。針葉樹材の寄木造で、保存状態もたいへん良く、全身が漆箔に覆われていることから、構造の詳細を知ることは難しいですが、近年、京都国立博物館によるエックス線CTスキャン調査が行われ、像内の腹部あたりに経巻状の納入品が籠められていることがわかりました。
この調査により、他にもいくつかの興味深いことがわかりました。ひとつが頭部の螺髪らほつです。一般的に螺髪は、彫り出したり、別造した螺髪の粒を貼り付けたりすることであらわしますが、この像においては、螺髪一つ一つが、金属製の釘で留められていることがわかりました。そして最も注目されるのが唇の表現です。朱がほどこされた上に、水晶が嵌められていることがわかりました。かすかに艶を帯びているのが、肉眼でも確認することができます[写真3]。
また、本像は裳裾もすそから足先がわずかに見える状態で、右足を少しだけ前に踏み出して蓮華座上に立ちますが、見えていない足首から膝下までもがつくり出されており、それを像底にあけた孔に深く差し込んでいる構造であることが、像を台座から下ろしてみることにより確認できました。
ここで改めて像のたたずまいを見てみると、来迎印を結ぶ左右の手の上げ下ろしが、通常の阿弥陀像とは逆さになっていること、また身につけている衣も、通常の阿弥陀如来像に見られる「偏袒右肩へんだんうけん」といわれる、衲衣が右脇を通って左肩にかかる着衣形式ではなく、右肩から左肩に渡して懸ける「通肩」とよばれるスタイルであることに気づきます。本像には、以上のような特殊な点が確認されました。


4.像に見られる特殊な技法

これらの技法や表現は、いったいどのようなことが意図されたものなのでしょうか。螺髪に金属製の釘を用いた固定方法はたいへん稀であり、補強といった目的が第一とは考えにくく、近い例として考えられるのが、螺髪を銅線であらわした例です。これは、木製の芯に銅線を螺旋状に巻き付けて形成し、一つずつ頭部に貼り付けたもので、茨城・万福寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)、神奈川・本誓寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)、滋賀・正善寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉〜南北朝時代・14世紀)など、10例あまりが報告されています。また、最も特徴的である、唇に水晶を嵌める技法ですが、仏像の目を水晶であらわした「玉眼」の技法はよく知られており、上徳寺像にも用いられていますが、唇を水晶であらわした、いわゆる「玉唇」の像は、現在のところ、東京国立博物館木造菩薩立像(鎌倉時代・13世紀、重要文化財)、京都・仏性寺木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代・13世紀)の2例が知られるのみです。
このように、口元を強く意識した技法の類例として「歯吹はふき阿弥陀」が挙げられます。これは、口をわずかに開いて、歯を見せる阿弥陀如来像のことで、構造的には玉眼と同様、内刳りをほどこした像内から、歯に似せた別材を口の裏にあてたものです。歯吹阿弥陀に関しては、これまでの研究で17例が報告されています。こうした銅線製の螺髪や歯をあらわす技法は、ある一定の阿弥陀如来立像に共通してあらわれる技法であり、加えてそれらには、足の裏にほぞを設けず、千輻輪相せんぷくりんそう(仏足文)をあらわすものが多いことがわかっています。

5.生身信仰

これらは、より現実的な姿であらわれた阿弥陀を意図したものであると考えられています。『大智度論だいちどろん』などの経典には「三十二相」という、ほとけの優れた身体的特徴が記されます。このうち、頂髻相ちょうけいそう白毫相びゃくごうそうなどは、如来像に一般的にみられる特徴です。一方で、四十歯相しじゅうしそう(歯が40本あり白く清潔である)、歯斉相しせいそう(歯の大きさが同じで美しく並ぶ)、白牙相びゃくげそう(上下4本の歯は白く牙のように尖る)・梵声相ほんじょうそう(声が清浄で美しく、人々を感嘆させる)などといった、通常では表しがたい、口元に関する特徴を具体的に表すとどうなるでしょう。歯吹阿弥陀は、ここに拠り所があるとされており、玉唇の阿弥陀像もまた、現実味のある姿を表現したものと考えられます。
鎌倉時代にはこの他、例えば貼毛をしたり、指先の爪を木とは異なる材であらわしたり、あるいは衣服を着せるなどの像が多くつくられるようになります。こうした流行には「生身しょうじん信仰」が通底するとされ、ほとけが衆生を救うためにあらわれた姿や、釈迦そのものの姿をより具体的にあらわした像が、信仰の対象となっていた背景があるのです。足首より上をつくりだし、像底に差し込むといった構造についても、釈迦の生き写しとされる京都・清凉寺釈迦如来立像(北宋時代・雍煕2年〈985〉、国宝)との共通性が指摘されており、同様の信仰が影響するものと考えられています。

6.宋代仏画との共通性

阿弥陀如来立像は、右手はひじを曲げ、左手は下におろした姿が一般的ですが、上徳寺像は、左右が逆になります。逆手の印相をあらわす早い例として、兵庫・浄土寺阿弥陀如来立像(鎌倉時代・建久6年〈1195〉、国宝)があげられます。重源の指導により、宋から請来した仏画に基づいて快慶が制作したことが知られており、逆手の印相をあらわす阿弥陀像は、これに連なるものとして位置づけられます。また、上徳寺像の整然と刻まれた衣のひだを見てみましょう。腹前から両足のあいだにかけての襞が、U字からV字状に変化していくさまは、京都・知恩院「絹本著色阿弥陀浄土図」(南宋時代・淳煕10年〈1183〉、重要文化財)に描かれた阿弥陀像などの仏画に近似します。つまり上徳寺像は、宋時代の美術の要素をうかがうこともできるのです。

7.さいごに

このようにして、本像は稀にみる「玉唇」の像で、生身信仰を背景とした像であることがわかりました。また、宋代美術の影響もうかがうことができ、このような複数の要素をそなえた阿弥陀像は他に例がなく、鎌倉時代に制作された彫刻を知るうえで、たいへん貴重な作例であるとして、京都市の文化財に指定されました。

※本像は、非公開です。

(会報121号より)