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後世への史跡継承のために「落柿舎の平成大修復」

財団法人落柿舎 保存会理事長
中井 武文

去来と落柿舎

嵯峨野の中心に位置する落柿舎らくししゃは、元禄の俳人向井去来むかいきょらいが閑を養うために営んだ草庵であり、日本文学史上の大変重要な史跡として知られています。
去来は、京における松尾芭蕉門下の中心人物として、俳諧の古今集とも称される『猿蓑』を編み、また蕉風俳諧の真髄を伝える『去来抄』や『旅寝論』を遺すなど、大変活躍した人でした。
去来は慶安四年(一六五一)に長崎に生まれました。青年時代には剣術・柔術・馬術・軍学を学び、武芸の名声は九州に知れ渡るほどでした。遠祖が南朝の皇子に従ったという誉れ高い武門の出として、その血脈は去来の中にも息づいていたものでしょう。さらに京にあって学芸にも親しみ、有職故実、神道を学びました。
三十歳を過ぎた頃から俳諧の世界に入りましたが、すぐにその才覚をあらわし、蕉門第一の俳士として知られるようになりました。芭蕉も、その篤実真摯な人柄を深く愛し、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えて門人のなかでもとりわけ信頼をおいたのでした。

元日や家に譲りの太刀はかん
鎧着てつかれためさん土用干
鴨鳴くや弓矢を捨てて十余年

このような句に、勇士去来というにふさわしい面目がうかがわれます。
芭蕉の没後、一家を構えて名利に走る門人もあったなか、去来はそれを深く厭い、一人の門人も求めず、ひたすら師より伝えられた風雅の道を一身に保ったのでした。まことに高潔の人でした。
さて、去来先生の落柿舎は、今から三百年以上も前、貞享二年(一六八五)の頃に構えられました。芭蕉も計三度ここを訪れ、嵯峨野の風情に寄り添い、くつろいだのでした。二度目はおよそ二週間も滞在して、名作『嵯峨日記』をしたためましたが、これが主人である去来の人物とともに落柿舎の名を高らしめたのです。現在の庵は、去来の没後六十余年後に再建されたものを濫觴らんしょうとしますが、長く「俳諧道場」として世々の俳人に愛され、大変重きを置かれました。その歩みは、初代庵主去来から現在の十五世庵主、伊藤桂一先生まで続いています。
現在も、芭蕉や去来を慕って、あるいはその萱葺き屋根の閑寂な風情と懐かしい趣きに誘われ、全国から人の訪れが絶えません。

落柿舎修復のあらまし

組上げられる新旧の木材(写真:上)と萱替えの様子(写真:下)

組上げられる新旧の木材(写真:上)と萱替えの様子(写真:下)

落柿舎は昨年平成二十一年九月、修復工事を無事竣工しました。当財団では、かつてない規模の大修復となりましたが、そのあらましは以下のとおりです。
落柿舎の庵は、全体的な緩み、柱や床の傾斜、壁の剥落などがみられ、萱葺き屋根の傷みも近年とみにはげしくなっており、このままでは倒壊の危険もあるという専門家の指摘さえありました。
そこで、財団法人落柿舎保存会では、さまざまに検討した結果、その閑寂な趣を変えることなく修復を施すことを条件に、工事実施を決意しました。施工は、寺社建築において信頼と実績のある株式会社奥谷組、そして、萱葺き屋根の葺き替えは、先代から落柿舎の屋根を葺きつづけている萱金に依頼しました。工期は十カ月と長く、園内は狭いので、その間は閉門とさせていただきました。これも、保存会発足以来初めてのことでした。
着工の前に、落柿舎の立地や建物の構造上、風致や文化財保護に関する課題も山積していましたが、関係官庁と協議しながら一つひとつ解決しました。さらに、奥谷組と綿密な協議を重ねた結果、①茅葺き屋根はすべて葺き替える ②柱や梁、壁などはできる限り現在使用されているものを残す ③朽ちた床下の木材などは取替え基礎部分を補強する、という修復の方向性をしっかりと定め工事に取りかかりました。

修復された萱葺きの屋根組(写真:左)と内部座敷(写真:右)

修復された萱葺きの屋根組(写真:左)と内部座敷(写真:右)

こうして一昨年(平成二十年)十二月一日に着工、年内に測量や足場工事、萱葺き屋根の解体を終え、明けて平成二十一年正月早々、土壁を落し本格的な修復工事に入りました。
ところがその時、玄関入口付近から江戸末期の釘やカンナの跡が見つかり、現在の庵の建築年代が推定できたことは、歴史的建造物の観点からも画期的なことでした。これが、財団法人京都市文化観光資源保護財団から助成をいただくことにもつながり、まことに有難いことでした。
それ以後、基礎工事を念入りに行い、五月に壁土・竹組みと荒壁の工事、六月には茅葺き工事と順調に修復は進行。梅雨の時期も素屋根で覆っていましたので大過なく工事は行われました。八月末には建具も入りほぼ完成に近づき、庭園の復元や修繕を行い、平成二十一年九月二十八日、無事竣工に至りました。
材木や壁土などを可能な限り再利用し、従来の趣を変えることなく復元するという当初の目的を、匠の技術により実現することができました。庵は、以後百年は問題なく保存できるとのことです。大切な史跡を後世に遺すという平成大修復の本願はこうして果たされました。
今後も閑寂を旨とし、日本文学の大切な心を伝える地として、落柿舎護持に努めてまいりますので、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

(会報100号より)