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特集 京の近代仏堂 その3 「近代的様式の模索」
清水 一徳
はじめに
前回号(『京の近代仏堂』-その2-)では古社寺修理の開始と平行して,およそ明治30年代より出現する古代,中世建築に様式的な範を得た仏堂建築を「復古主義」として取り上げました。
その設計には古社寺修理を経験した建築家が多く関わっていましたが,彼らは歴史的建築の意匠の折衷やその復元の試行・遂行に留まらず,さらに復古を超えて伝統的意匠・形態を再構成しながら積極的に新意匠の創造に踏み込んでいきます。
そしてこの急先鋒としては,前回号でもご紹介した京都府技師亀岡末吉(1865‐1922)が挙げられます。「亀岡式」と称されるようになるその作風は,建築の概形は古建築から引用しつつ,欄間等を埋める彫刻に伝統意匠を抽象化,変形したもので置き換えるものでありました。その作風は,古社寺修理技術者や内務省を経て,全国に流布していきます。
しかしながら,市内の近代仏堂遺構を展望してみると,「亀岡式」に代表される独創的な細部意匠の展開に留まらず,その設計の特徴として全体の格好やプロポーションの巧みな構成をもつものも多くみられ,かつて登場したことのない仏堂建築を細部のみならず建築全体として編み出そうとする作者の強い意識も看取することができます。特に大正から昭和戦前期にかけては以上の傾向は顕著なものであったとみられます。
今回は,この種の日本近代期特有の表現的特徴を併せもつ仏堂建築を「近代的様式の模索」として取り上げ,京の近代仏堂がどのように前近代を継承し,一方新たな建築的変容をどう見せていったかその成立と展開の実態について,3件の具体事例を取り上げながらその一端を紹介してみようと思います。
鞍馬寺寝殿 京都市左京区鞍馬本町
鞍馬寺は鞍馬弘教の大本山であり,鞍馬川を脚下に見る鞍馬山南中腹に位置します。宝亀元年(770)鑑真の高弟鑑禎上人が一庵を草創し,延暦15年(796)藤原伊勢人の時に鞍馬寺を創建したと伝えます。
鞍馬寺は実に火災の多い寺院であったため,江戸時代以前の建造物は伝存していません。明治維新後は本堂(明治6年=1873),仁王門(明治44年)の再建,大正11~13年(1922~1924)にかけて本堂の修理,護摩堂の再建などが成り往古の姿を整えはじめましたが,昭和20年(1945)に堂舎の大半が焼失してしまいます。その後再び山容復興に邁進することにより現在の伽藍の骨格が形成されています。
寝殿は大正期の復興建築遺構です。敷地は本殿への石段を登りきる手前の石垣上に選定され,大正12年7月に上棟式,同年10月に竣工を迎えています。設計は当時奈良県技師の岸熊吉(1882‐1960),監督は細見藤吉が担当しています。
建物は住宅風の洗練された優美な建築で,主要部を桁行8間,梁行5間の規模をもつ東西方向の入母屋造,銅板葺(元は桟瓦葺)とし,西方に縋破風造の庇をかけ諸室を付加,東妻の南寄りに切妻屋根を突き出し寝殿への出入口と同時に南に広がる庭園との仕切とします(図1)。
平面は3室を東西一列にならべ,それぞれ北側に奥行き1間の室を付設,入側縁をめぐらせて主体部を構成します。南に吹放ちの広縁を付け,周囲に落縁をめぐらせます。中央室は板敷で24畳大と広く,略儀の仏事をここで行います(図2)。西端の9畳は上座の間となり床と帳台構を設けます。その北に床面を一段高くして長4畳の上段の間とし,壁面折矩に違棚・付書院を装置しています。
寝殿は書院造と寝殿造のおもしろい交流をみせています。広縁東端に板間を突出させ,客人の出入口となし,柱間装置に妻戸(両開き戸)に並ぶ横格子の櫛型・連子窓を設けた壁面をつくる構成は,公家住宅一般にみる中門廊を象徴するもので寝殿造のおもかげをよく残しています。建物内外を隔てる建具として蔀戸を多用し一部に妻戸を用いていること,周囲の落縁に高欄をめぐらしている点,いちだんと寝殿造に接近したものとなります。
しかし,内部は西端室を上座に3室を一列に並べた対面所にも通じる形式とし,上座・上段の間には床・棚・帳台構・付書院を配し,天井を折上小組格天井にするなど,完全に書院造の方式をとります(図3)。つまり外形には寝殿造の名残りがかなり残っていますが,内部は完全に書院造の手法にしたがっているのです。
内部の細部意匠は,各室境の内法長押の上に入れる彫刻欄間の透彫,上段の間の違棚の構成,各所の金具文様などにて書院の一律的な形式からはなれた新鮮な感覚をもって意匠を展開させています。
寝殿の大きな特徴は,歴史的建築の復元を遂行するという受け身としての継承ではなく,平安後期に大成された寝殿造と中世以降の書院造を現在の建物に応用し独自の木造建築を現出している点にあると言えます。近代日本建築が伝統的建築への理解と創造的展開を具体的な堂宇造営を通して見せた重要な実践例として,かつその秀作として注目される作品です。
知恩院納骨堂 京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町
浄土宗総本山である知恩院は華頂山麓に位置します。浄土宗開祖法然上人源空の入寂の地にあたり,境内に多くの堂舎伽藍を有する洛東の巨刹です。徳川家康の時期以降,寺地の拡造成が進められ主要建築が立ち並び,なかでも法然上人の御影を安置する御影堂(本堂)は寛永16年(1639)の再建で,桃山風の名残りをもち正面柱間11間にも及ぶ広壮な建築として諸堂の中核を占めます。
納骨堂は御影堂の東南方,放生池に架かる石橋を東に渡り,石段を登り詰めた小高い森の中に均整のとれた美しい姿をみせています(図4)。善導大師の遠忌記念事業の一環として昭和2年(1927)に建設が決定され,同3年12月に立柱,同5年4月に落慶を迎えています。設計は前回号でもご紹介した京都府技師阪谷良之進が担当しています。
建物は石造基壇の上に建つ平面方形の一重裳階付の御堂で,その設計方針を平等院鳳凰堂に求めたとされます。裳階は方3間,蓮弁を刻む地覆石に面取柱をたて,各辺中央間は幣軸つき両開き板扉を装置(背面のみ板壁にて塞ぐ),左右の各間は連子窓に造ります。柱頭および中央柱間上に大斗を置き,平三斗で軒桁を支えます。
下層(裳階)屋根から上方へ覗く身舎は方1間,周囲に縁高欄を廻し,四隅と各辺中央に和様四手先組物を据え上層軒を支持します。軒まわりは上下層とも二軒とし,屋根は本瓦葺で上層を宝形造とし頂上露盤と四隅に金銅製の鳳凰をおき,下層屋根は縁高欄下から四方へ葺きおろします。
内部は四半土間敷の間仕切のない空間で,裳階柱筋に身舎丸柱を4本立て,内陣を構成します。内陣後ろ寄りに来迎壁と須弥檀を構え,阿弥陀三尊を中心に諸仏を安置します。室内装飾に彩色が主体の華麗かつ濃厚な荘厳を尽くしています(図5)。
建物は軒反り技法,組物様式,瓦当文様などからも設計の典拠を古典に求めていることがわかります。しかしその一方では波瀾曲折の妙を画しながらこれを崩してもいます。たとえば納骨堂の屋根は外観上二重となりますが,上層の軒先が下層より外方に多く出ているにも関わらず,建物の均衡が保たれ,落ち着いたかたちとなります。これは裳階屋根から上方に覗く柱を極度に低く抑えることにより,外観上上層の高さを下層に釣り合せ,柱上に複雑に積み上がった四手先組物の一手目を縁高欄の見え隠れにするという抑制・矯正処理がおこなわれた結果とみられます。
また下層の軒においては垂木のみならず茅負に至るまでごく大きい面をとり,互いを面内に含み込むように密着させるという変則的な処理がおこなわれ,およそ堂宮建築とは思われないほどの軒構成の軽快感が実現されています(図6)。
当建築は古式を遵守する立場と創造的な展開が共存しながらも,全体として整った調階を得て破綻なく纏められており,設計者である阪谷良之進の日本建築に対する技術的・様式的知見の充実ぶりや優れた造形感覚が伺えます。明治以降の仏堂建築形成へのさまざまな試みの系譜にあって,古格と時流の調和を深く示した近代仏堂の代表作として理解されることができるでしょう。
神護寺金堂 京都市右京区梅ケ畑高雄町
神護寺は和気清麻呂の創建になる高雄山寺を元とし,空海が入寺以来,真言寺院として寺基を整え,一大山上伽藍を形成したのにはじまります。中世の盛衰を経て後,近世初頭には寺勢を回復するも明治維新以降は一部の伽藍をとどめる状況でありました。昭和初期に至り寺門の復興に腐心するなか,これを知った実業家山口玄洞が大檀越となり,昭和8~10年(1933~1936)に復興事業を推進,専任設計技師として元京都府技師の安井楢次郎(1873‐1942)を充て,金堂をはじめ,多宝塔,和気公霊廟,茶室等を建立,毘沙門堂その他を修繕して現在の伽藍の基本が構築されました。
金堂は神護寺の中心堂宇であり,境内西方の大石段上にその広壮な姿をみせます。昭和8年1月起工,同年7月上棟,同12月に竣工を迎えています。高い石垣基壇上にたち,桁行7間,梁行6間,屋根は本瓦葺で入母屋造とします(図7)。本尊に国宝・薬師如来立像を祀ります。柱はすべて丸柱で,外周柱間は正面中央3間および側面1ヶ所にて板扉を吊り,他を連子窓とします(背面は白壁にて塞ぐ)。建物四周には擬宝珠高欄を廻し,組物は和様三手先,軒は二軒繁垂木とします。
堂の内部は密教修法を行する板敷の3間四方の空間を中核とし,その後方に本尊ならびに諸尊を祀る須弥檀を列し内陣を構成,この正・側面に外陣を廻らせています(図8)。内陣と外陣を境する円柱上には和様二手先の組物を組みます。二手先の組物で持ち出されたなかは外陣を小組格天井,内陣はこれを折上げとしています。建物は内外とも丹を主体に塗りますが,諸尊を祀る内陣一郭のみは黒漆を地色に極彩色装飾文を要所に施し,仏の境域内外で美しい対比を示しています。
全体の堂構成で特徴的なのは,堂内の間仕切りのない開放的かつ一体的な構成と内陣の正・側面を包み込む凹字型の外陣にあります。外陣巾は柱間2間と広く,更に一連に天井を張り,畳を敷き詰め,座居に適した落ち着いた空間であり,内陣を囲むことにより諸仏や修法との密接な距離感が生まれ,建築空間としても組物など内陣の正・側面を意匠的に見せることに供しています。
細部の意匠や技法をみると,外陣の天井周縁を飾る横連子,柱の隅延び,須弥檀格狭間にみる俗に「蝙蝠型」といわれる輪郭,軒丸瓦の蓮華文などに,古代・中世を基調に古格を遵守するという設計者のはっきりとした意識が感じられます。しかしその一方では,高欄や板扉へ打つ飾金物の図案的な文様,組物間の蟇股や笈形にみる極彩色の緻密な渦唐草などに自在で意欲的な造形や表現をみせています(図9)。
金堂の建築された昭和初期は,新たな仏堂建築の設計において積極的な創意工夫がもたらされ,所謂新興社寺建築の時代を構成し,若しくは構成しつつある時期にあります。金堂における内部空間の巧みな構成,また歴史的文脈は尊重しつつ独創的な細部意匠を展開させる点は,設計者の安井楢次郎が堂宮建築に関して当代随一の意匠構成力を有していたこと,またこうした造営を可能とする京の堂宮系大工技術が確かに存在していたことを眼前に証明してくれます。