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特集 京の茶室 2「組みあわせる妙 小堀遠州の茶室」
桐浴 邦夫
小堀遠州の茶の湯を表現するのにしばしば「きれいさび」という言葉が使用されます。閑寂や枯淡のなかに、その反対の言葉とも思える華やかさや麗しさのある風情のことをいいます。この「きれいさび」を含め遠州は、本来性格の違うものを組みあわせ、新しい形を造り上げました。
小堀遠州、本名は政一。天正7(1579)年、近江国小堀村(現長浜市)に小堀正次の長男として誕生しました。幼名は作助、遠州の名は、従五位下遠江守であったことによります。早くから茶の湯に親しんでおり、古田織部に師事したといい、織部のあと、江戸幕府の茶道師範として迎えられます。また幕府では作事奉行を務め、禁裏、仙洞御所、二条城、江戸城山里、駿府城、名古屋城など重要な建造物の造営を担当しました。一方で作庭家としても知られ、現在では全国各地に遠州好みを称する庭園が数多く存在します。おそらくは遠州が直接かかわっていないものもあるでしょうが、遠州が当時の庭園デザインをリードしており、その影響を受けたものも遠州好みと言っているのだろうと思われます。
遠州は当時の江戸幕府においては重要な立場にありました。一方で茶の湯の理念は、そういった社会秩序とは別のもの、場合によっては相対するものでした。千利休の茶は織部に伝えられ、その織部から遠州へと伝えられました。遠州の茶の湯そして茶室は、茶の湯の理想と時代の要請、という相対するものを組み合わせることに砕心してつくられたものです。
慶長(1596-1615)の頃、遠州は伏見の六地蔵の屋敷に住んでいました。そこで使用されていた茶室は長四畳でした。寛永年間(1624-1644)後半になって、伏見豊後橋詰の奉行屋敷において行われた茶会では、四畳台目の茶室が使われていました。先の長四畳を発展させた形で、草庵、つまり素朴さを表現したものとなってます。これは遠州がしばしば用いた形式で、長四畳に台目の点前座を取り付けた格好になります。床の間が下座、つまり亭主のやや後方に構えられ、躙口が側面の中央部に設けられています。後述する現在松花堂庭園に復元されている閑雲軒に似たものです。またこの茶室には格式の高い空間としての書院、書院と茶室の中間的なややくつろいだ空間の鎖の間、さらには庭園内に独立した茶屋が併設されていました。遠州は四畳台目とこれらの施設を一体化して計画し、茶会に使っていたようでした。
このように遠州は、違った性格の部分を一つの茶室の中に作り込み、さらには全体としてさまざまな要素を持った複合の施設を組み上げていきました。
それでは遠州とその関わりのある茶室を見ていきましょう。
金地院八窓席
小堀遠州が金地院崇伝の依頼を受け、金地院に以前からあったものに手を加えたもので、寛永5年(1628)頃までに完成したと考えられています。外観は柿葺の片流れ屋根です。三畳台目の平面で、亭主の着席する点前座と床の間が並んだ形式となっています。床柱が赤松皮付き、相手柱が櫟の皮付き、そして床框は黒漆が塗られています。床の間と点前座との境の壁には墨蹟窓があけられています。点前座は、いわゆる台目構えという形式です。台目切りに炉が切られ、椿の中柱が立てられ、袖壁には下地窓があけられています。亭主の場所を小さく扱うのは、りっぱな道具立てによる格式の高い茶の湯を拒否する形式で、また袖壁や中柱といった要素によって次の間、つまり格下の空間のように見せています。一方、点前座と床の間が並ぶことによって、客は床の間の姿と亭主の手前を両方一緒に見ることができます。これは客の目を楽しませる構成といえるでしょう。
この茶室の特徴は、点前座の向かい側に開けられた躙口の位置です。通常ならば端に寄せて開けられるところが、壁の途中に設けられています。ちょうど天井も平天井と化粧屋根裏天井を分ける位置です。躙口は、刀を置き、頭を下げ、体を小さくして入る、客用に設けられた出入口で、侘び茶には欠かせない要素で、平等を表現するものです。一方これに加えて遠州は、封建社会の秩序を茶室に体現するため、躙口の右左で空間の上下、つまり貴人座と相伴席に二分しました。茶の湯の理念と封建秩序をあわせた形式となっています。また一般的に躙口は露地から直接上がり込む形式ですが、ここでは縁に接して設けられています。
なお、この茶室には多くの窓があけられています。外に面しては三つの連子窓と一つの下地窓、そして床の間と点前座の袖壁です。窓が多い茶室は遠州の茶室の特色ですが、八窓庵と称しながら六つの窓しかあけられていません。八という数字は多くの数という意味か、あるいは改修されていますので、元は八つの窓があったのかも知れません。
孤篷庵忘筌
大徳寺孤篷庵は慶長13年(1608)、小堀遠州によって龍光院内に江月宗玩を開基として小庵を創立したのが始まりです。寛永20年(1643)には、現在地に移転し独立し、そのとき堂宇が拡充されたものと考えられています。残念なことに寛政5年(1793)に焼失しました。しかし近衛家や松平不昧らの援助によって、元の通りに再建されたのが現在の姿です。
その中に位置する忘筌は、L字形に構成された十二畳の書院座敷です。L字形にすることで、相伴席を組み込んだ形式となっています。北側の三畳部分です。遠州の師である古田織部は、敷居と鴨居によって厳密に区分された相伴席を表現しましたが、ここでは緩やかな区分となっています。また点前座と床の間を並べることも遠州の得意としたところで、これらを景色、つまり鑑賞の対象として表現しているのです。
もっとも注目される部分は縁先の構成です。中敷居の上に障子が建てられ、その下が吹き放たれています。生け垣で囲われ、茶の湯の庭として必要最小限の手水鉢、燈籠を室内から見せています。逆に他には何も見えません。その軒内部分が露地に相当します。つまりタタキの中に飛石が打たれ、沓脱ぎ石から縁へ上がるように組み立てられています。中敷居があるため縁への上がり口は躙口のように頭を下げないと通れないような仕組みになっています。つまりこれは草庵茶室の躙り入る方法を書院に応用したものです。またこの上がり口の位置は座敷の中央となっており、その左右で空間の上下の意味を変えた平面構成となっています。
室内は面取り角柱に長押が付けられ、下が張付壁、上が漆喰壁となっています。天井はいわゆる砂摺り天井と呼ばれ、杢目を浮き立たせそれに胡粉を塗った竿縁天井です。点前座と床の間の境部分は風炉先窓のように吹き抜かれ井桁の格子を組み、下半分を唐紙張りとしています。炉ははじめ台目切りであったと言いますが、現在は四畳半切りに構えられています。
部屋の基本的な組み立てが端正な書院造なのですが、天井部分や縁先の組み立てなどが草庵的なものです。書院と草庵を組み合わせた、遠州らしい座敷です。
松花堂庭園内 松隠(閑雲軒)
石清水八幡宮は幕末まで神仏習合の宮寺として、48もの坊がありました。その一つ、瀧本坊には松花堂昭乗が社僧として住んでいました。この瀧本坊には小堀遠州が造った茶室や書院などが存在し、その中に閑雲軒がありました。寛永9年(1632)頃に建てられたと考えられますが、惜しくも安永2年(1773)に焼失しました。しかし記録やおこし絵図が遺されており、昭和45年(1970)、中村昌生氏によって松花堂庭園内に復元されたのが松隠です。
当時の記録にもありましたが、近年の発掘により、山腹の崖にせり出した「空中茶室」であったことが明らかになりました。廊下が露地の役割を果たし、眼下に絶景を見下ろしながら歩き、縁より躙口に入る形式でした。屋内である廊下が戸外のように演出されていたようです。
間取りは四畳台目。客座は長方形の四畳で、その長辺のおよそ中央部に台目構えの点前座が設けられています。床の間は下座に構えられ、躙口は点前座の対面の壁の中間部にあけられ、その上には連子窓と下地窓が重ねて配置されています。躙口が壁の端にないことで、その左右、つまり床の間側と反対側で、空間の上下が分けられています。点前座には台目切りの炉が設けられ、亭主の入る茶道口と料理や菓子を客座に運ぶ給仕口が直角に設けられています。また点前座の勝手付、つまり客座と反対側には上下にずらして並べた色紙窓が設けられますが、師匠の織部とは違って、床より少し壁を立ち上げた形にしています。点前座の上部には突上窓があけられていましたが、復元では屋根構成の関係で省略されています。
松花堂
松花堂昭乗は書道や絵画に優れ、茶は小堀遠州に師事したと言われています。先の瀧本坊には、貴族や武士あるいは町人など、既存の枠組みにとらわれることなく、多くの文化人たちが集まり、寛永文化の交流の中心でもありました。しかし昭乗は、寛永14年(1637)に瀧本坊の南の泉坊に引退し、茶の湯空間も含む方丈の生活空間として松花堂をつくりました。
明治の神仏分離令によって、松花堂は山麓の大谷氏の別荘に移築され、さらに明治24年(1891)井上氏によって現在地に移築され、泉坊庭園を復元しました。戦後、塚本氏の所有するところになり、のちに史跡松花堂として八幡市の管理されるようになりました。
建物の屋根は茅葺で正面に桟唐戸を設けています。平面は土間付の二畳で床の間と丸炉を下に備えた袋床、仏壇、そして勝手と水屋によって構成され、天井は折上天井で中央部に網代を組んで、日輪に鳳凰の絵が描かれています。現在、炉は丸炉ですが、以前は隅炉であったことを伝える史料もあります。
この建物には庵居という住宅要素が簡素に圧縮されています。また持仏堂の要素もあり、一方茶事に使用することもでき、方丈の空間にそれらの要素が凝縮されています。瀧本坊において華やかな茶事を行っていた昭乗の、最終的な到達点が松花堂でした。昭乗は遠州に学び、最終的には千利休的な厳しさに行き着いたといえるかも知れません。