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文化財修理現場の現場から 「文化財建造物の保存修復 ―建仁寺開山堂楼門修理工事から」
藤本 春樹
はじめに
建仁寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山で、山号を東山と号する。建仁2年(1202)の創建で、開山は日本に禅宗を招来した明庵栄西である。
開山堂は古くは興禅護国院といい、健保3年(1215)示寂の開山栄西禅師の塔院で、建仁寺の三門の東方の地形が一段高くなった敷地に所在している。その位置は「東山往古之図」(南北朝期 1365年以降)にも記されているように、創設以来変わっていないものと考えられる。しかしながら、護国院は度々火災に見舞われ、天文21年(1552)の兵火では、三門・仏殿・法堂・方丈をはじめとする伽藍諸堂・塔頭とともに焼亡してしまった。その後、慶長年間から元和元年(1615)に客殿が建てられるまでの間、順次修復整備されていったとみられる。護国院の建物群は、その後幕末・明治初期には壊廃が著しかったと思われ、明治17年に開山塔の建て替えが行われ、翌18年には開山塔整備に合わせて妙心寺塔頭玉龍院の客殿(方丈)を移築して客殿としている。経堂は、旧開山堂の昭堂の古材を転用して、再建された可能性が大きい。楼門は、「宝陀閣(ほうだかく)」といい、同年に鳴滝の妙光寺の山門を移築したものである。このように護国院の建物の半分は移築によるものであるが、他から建物を移して再用することは中・近世にはよくあることであった。
建物の概要
〈構造形式〉
概要
楼門/三間一戸二階二重門 入母屋造 本瓦葺 西面
山廊/各桁行一間 梁間一間 切妻造 桟瓦葺
楼門:一階は桁行三間、梁間二間、正面中央間に桟唐戸を建て込み、両脇間に花頭窓を設け、両側面は土塗壁、背面は三間とも開放としている。二階は桁行三間、梁間一間、正面中央間には方立柱を立て桟唐戸、両脇間に嵌殺し板戸を建て込んでいる。両側面は方立柱を立て中央に桟唐戸を建て込み、背面は中央間を土塗壁とし、両脇間には嵌殺し板戸を建て込んでいる。周囲には縁を廻らし高欄を設け、側面中央部に階段登口を構えている。柱は総て丸柱、軒は一軒疎垂木で、一階床は四半瓦敷き、二階室内は拭板張りとしている。
山廊:桁行梁間とも一間、正面は土塗壁とし、背面には花頭窓を設けている。各々楼門側には開放の階段登口を設け、他方には板戸を建て込んでいる。柱は面取り方柱、軒は一軒疎垂木で、室内は土間床、軒内土間は瓦敷きとしている。
修理工事の概要および経過
開山堂楼門は、妙光寺の山門として寛文6年(1666)頃建立された(正覚山妙光禅寺紀年集)と考えられるが、修理等その後については詳らかでなく、明治18年(1885)から同20年(1887)にかけて建仁寺開山堂の山門として現在の場所に移築され、以来部分的な修理が行われてきた。
修理前の楼門は、移築場所が盛土による造成地であったため立地条件が非常に悪く、建物の基礎となる地盤は軟弱で、柱礎石は建物の荷重に耐えがたく著しく不同沈下を生じ、軸部の傾斜も甚だしく、全体に大きく西方に傾いていた。また、軒廻りは総じて軒先の垂下が甚だしく、腐朽も著しかった。屋根は全般的に耐用年限に達しており、瓦の緩みや割れが多く、雨漏りによる野地の腐朽も生じていた。
このような状況から、建仁寺では修理方針を半解体修理として開山堂楼門の保存修理工事を実施することにした。
楼門は地盤の不同沈下に伴って傾斜していてため、屋根及び野地、小屋組、床、縁廻り、壁を一旦解体し、軸部をジャッキアップして、地盤と基礎の補強を行った後に礎石から据え直し、軸部の建て起しを行い、組み直した。二階床組は一部構造補強のために部材の改変を行ったが、その他の古材は構造上支障のない限り再用につとめ、再用できなかった古材においても、建物の変遷を知る上で重要な材は二階床下、小屋裏に保存し、将来の参考資料とした。
工期は当初平成23年3月から平成24年8月までの予定で着手したが、軒廻りから小屋組にかけての朽損が予想外に著しく、古材の繕いや補足材の加工手間が増え、工期を5ヶ月半延長し、平成25年1月17日に落慶した。
主な修理工事の実施内容
今回の修理工事の主なものとしては、朽損木部の補修のほか基礎地盤の補強、一階軒先の垂下に対する構造補強、屋根瓦の葺き替えがあげられる。
基礎地盤の補強
基礎地業の方針を決定するため、スウェーデン式サウンディング試験を6か所実施したところ、現状地盤より3.75m付近まで急自沈、空隙部自沈層(軟弱層)が確認された。基礎地盤への対策工法を検討するに際しては、
- 施工機械が小型でかつ上空制限があっても施工可能であること。
- 側柱通りの軒内葛石以内で対策工が施工できること。
- 近接する既存石垣に極力影響を及ぼさないこと。
以上の制限を考慮して検討した結果、薬液注入工法を採用して強化、安定を図ることとした。
注入工法は二重管ストレーナー工法単層式で、使用薬液は非水ガラス系懸濁型薬液(主剤:ポルトラントセメント、硬化剤:サンコーバードAQ2-10秒)とし、注入計画深度は基礎底から2.0mとした。注入孔の間隔は約90㎝で、注入作業は54か所を7日間かけて実施した。
地盤改良工事施工後1週間の養生期間をおいて、地耐力を確認するため地盤の平板載荷試験を行った。本載荷試験での測定結果から得られた長期許容支持力は61.97kN/㎡で、概算により算定した長期設計支持力60.0kN/㎡より上回っていることが確認された。
基礎は、その上に厚さ25cmの鉄筋コンクリートのべた基礎を造り、既存の柱礎石を不陸なきよう据え付けた。
一階軒先の垂下に対する構造補強
一階の屋根は軒桁から外の荷重が大きく、桔木で軒先の荷重を支える構造になっているものの構造的なバランスが悪く、また、軒桁にかかる梁は径が末口18cmで、二階床梁も15cm角と部材断面が小さいことから、桔木尻を抑え込むには不十分な状況であった。そのため一階の軒先は大きく垂下し、桔木尻の跳ね上がりで二階の床梁は折損し、床板は中央が大きくムクリ上がった状態となり、著しい歪みによって生じた化粧垂木の折損もみられた。
補強方法については、既存の床組を残しながら施工可能な工法ということで検討を重ねたが、床下の空間が狭く補強材を追加して納める余裕がないうえに半解体修理という制約もあって、条件をすべて満たす最良の工法を見出すことはできなかった。今回の修理では床下の見え隠れ部分で構造補強を行い、二階楼内に補強材を見せないことに重きを置くこととして、床梁を大断面の部材に変更して新材にて取り替え、かつ、補強金物等により床組を一体化して桔木尻を抑える込む工法を選択して工事を実施した。
屋根瓦葺き替え
既存の屋根は全体に破損が著しく、楼門が移築であることや繰り返し行われた修理の結果多くの種類の瓦が混在することとなり、軒丸瓦および掛丸瓦には43種類、軒唐草および掛唐草瓦には31種類もの瓦が用いられていることが判った。楼門では総数14個の鬼瓦が用いられ、割れや欠損など傷みの著しいものも多かったが、大棟、降棟、隅棟の鬼瓦すべてに同作人のものと思われる古瓦が残されており、降棟および隅棟鬼瓦の肩には「深草瓦師長兵衛」と箆書きが記されていた。しかしながら、大棟鬼瓦にはいずれも刻銘はなく、作られた年代を記すものはみられなかった。
今回の修理では鬼瓦以外の瓦はすべて新調とし、それらの瓦の製作にあたっては当初瓦と思われるものに倣った。鬼瓦については可能なものは補修して再用したが、降棟および隅棟の鬼瓦7個と大棟鬼瓦の鰭一対は既存に倣い新調した。また、屋根瓦葺の工法は、屋根荷重の軽減を図るため空葺とした。
終わりに
今回の開山堂楼門の修理工事とは直接関係するものではないが、移築前の護国院の表門について少し触れておきたい。
護国院の表門は、開山塔整備時の明治18年に城陽市の三縁寺に移築されて、同寺の大門(城陽市指定有形文化財)として現存している。大門は一間一戸向唐門(桁行11.32尺 梁行5.00尺)で、屋根は元杮葺であったものを桟瓦葺に改められているが、そのほかは改造を受けることなく元の形式を伝え、屋根の曲線はのびやかで、安土桃山時代の向唐門の本格的な造りとなる重要な遺構と位置付けられている。
以上、開山栄西禅師八百年大遠諱記念事業の一環として実施された開山堂楼門の保存修理についてその概要を述べてきたが、このたびの工事では、近世における比較的小規模な禅宗寺院における三門の例として貴重な遺構である開山堂楼門だけでなく護国院の表門の来歴についも知ることができ、いずれもが文化遺産として長く後世に引き継がれていくであろうことを思うと極めて感慨深いものであった。
最後に本工事中にご指導、ご協力いただいた建仁寺ならびに工事関係者各位に改めて感謝申し上げます。
※当「建仁寺開山堂楼門」修理工事には、平成24年度に当財団で助成を行いました。