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特集 京の茶室 3「公家の好み」
桐浴 邦夫
譲位した後水尾上皇は、寛永(1624~44)の末頃から、洛北において山荘の造営に着手しました。長谷、岩倉、幡枝など、比叡山を見わたす山里に次々と別業を築いていきました。そして上皇が最後に行き着いたのは比叡山の懐に抱かれた修学院の地です。一方、八条宮智仁親王は桂に別業を造り、その子智忠親王は御殿を拡張し、また養子として八条宮を継承した後水尾院の第11皇子である穏仁親王が、苑内の茶屋を整備しました。その中の茅葺の一屋には茶室を組み込みました。その松琴亭と名付けられた茶屋は、素朴な田舎家の外観をもちますが、内部には紺と白の市松模様をあしらった大胆な意匠が床の間や襖障子に施されています。
修学院離宮と桂離宮、日本建築を代表する二つの離宮は江戸時代のはじめに造られたものでした。この時代、公家たちにおいては、現代風にいえば田舎暮らしへのあこがれのような意識が強くありました。京都郊外の山里にあこがれをもち、あるいは田舎家風の建物を建てました。しかしその一方、きらびやかな、あるいは斬新なデザインを施すことも時にはありました。前回みた小堀遠州らのデザインと、公家の環境からくる考え方とがあいまった建物の形です。それは江戸期のみならず、近代においても輝きを失わないデザインであり、じつはモダニズム建築へも少なからぬ影響を与えたものとして位置づけることができるのです。今回は江戸期の公家たちの茶室を見ていきたいと思います。
伏見稲荷大社 御茶屋
伏見稲荷大社には、後水尾院より拝領したという伝えのある御茶屋があります。院に仕えていた羽倉延次が授かり、しばらく羽倉家に伝えられてきたものが、明治21年、大社の禰宜であった竹良豊に譲られたものです。
屋根は入母屋造桧皮葺に木連れ格子と懸魚が付けられた格調高いものです。床、棚、付書院を備えた七畳敷きの一の間と八畳の次の間が東西に並びます。北側には板敷の広縁と長四畳の縁座敷が取り付き、南側には板敷の縁が設けられています。七畳の座敷は、出床形式の床の間に黒塗りの床框を備え、付書院には端正な輪郭の火燈窓があけられて、室内には長押を巡らし釘隠しを打ち、格調高い書院造の座敷となっています。一方で、床柱やその相手柱には丸太が選択され、素朴さや和らいだ雰囲気をかもしだしています。
茶湯の施設としてこの建物を見た場合、床脇の一畳が茶立所としての意味をもつと考えられます。現在ではその隣の畳が点前座となっていますが、周囲の意匠から、移築が行われたとき、改められたものではないかと考えられます。亭主の謙虚さを表現した落天井があり、さらに床の間との境の壁は下部を吹き抜いた形式です。その勝手付(壁側)には違棚が設けられています。天袋を備え、下部は蹴込形式の地板が敷かれ、棚そのものはやや低く取り付けられており、亭主が利用するために考えられた高さではないかとも推察されます。
七畳座敷の北側は、明障子が建てられ、その上に欄間が天井一杯までの高さで取られていますが、珍しい手法です。ただ、同じ形式は桂離宮古書院二の間の欄間にもみられ、そこでは、月見台を通して庭園へ緩やかに広がる組み立てとなっています。ここでも広縁を通して庭園につながります。次の間との境の欄間も天井まであけられ、菱格子が嵌められています。次の間の八畳には縁座敷が設けられていますが、後水尾院の弟の一条恵観が西賀茂に造った恵観山荘(現在は鎌倉に移築)にも通ずるものです。
建物の内外を緩やかに連続させた意匠は、寝殿造以来の公家の建築の特徴で、本来閉鎖的である茶室を構成する意匠を組み込んで、新たな数寄屋建築を生みだす大きな原動力となりました。近代になって世界中から視線が注がれた桂離宮などと主に共に、この御茶屋はその初期のものとして位置付けることができます。
曼殊院 書院と茶室
天台宗延暦寺に属する曼殊院は、中世以来、皇族や摂関家の子弟が住する門跡寺院としての性格が定着しました。第29世の良尚法親王の代に、幕府の命により現在の一乗寺にその場所を移しました。良尚法親王の父は桂離宮を創設した八条宮智仁親王、そしてその兄は、桂離宮を引き継いで整備を行った智忠親王でした。そのような状況のもと、建築されたのが現在の曼殊院書院です。
曼殊院の小書院は、上段をもつ黄昏の間、八畳の富士の間、置床を設けた二畳の間、そして三畳台目の茶室と水屋などによって構成されています。東と南には低い高欄の付いた縁が廻り、開放的な構成となっています。黄昏の間は七畳敷きで、上段には床の間と火燈窓のある付書院が配され、上段脇にはいわゆる曼殊院棚を備えます。室内には長押が廻され、床の間や棚の壁面は張付壁にするなど、書院造りの構えですが、一方で丸太の使用や凝った棚の装飾など数寄的な側面も見せています。曼殊院棚は多種類の木材を組み合わせ、厨子棚や袋棚を組み込み、縦横ランダムに3分割された意匠はユニークなものです。
二畳の間は黄昏の間を主室とする茶立所としての意味合いがあると考えられます。それは室町時代以来の伝統の「殿中の茶」を伝えたもので、近侍の者が脇の部屋で茶を点て、主室へ運んだ形式です。もっとも独立した茶室としてみた場合、変則ですが向切本勝手下座床となり、床脇の少し低い襖障子が茶道口となります。点前座脇には低く引違の小襖が建てられていますが洞庫としての役割です。床の間は置床が固定された形式で、楓の地板に柿の蹴込板を入れた押板状のものに、逆蓮の擬宝珠を付けた親柱と高欄が取り付いたものです。
三畳台目は八窓席あるいは八窓軒とも呼ばれ、八つの窓をもつ茶室です。下座に構えた床の間には、塗りの床框と赤松皮付きの床柱、相手柱として櫟の皮付きの柱が立てられています。床脇の壁面には火灯口形式の給仕口があけられ、茶道口は方立形式です。点前座は台目構えの形式で、緩い曲がりをもつ桜の皮付きの中柱で客座と仕切られており、色紙窓と風炉先窓をあけています。袖壁の内側には二重棚が釣られていますが、上棚が大きく下部が客座側から見えない雲雀棚の形式です。天井は、一般には点前座の上が落天井となることも多いのですが、ここでは床前の客座から平天井がそのままつながっています。藪内家の燕庵にも同じ構成の天井がみられます。床正面には躙口があけられ、その上部の天井は化粧屋根裏の形式で、突上窓をあけ、垂木には多種類の雑木が使用されています。躙口側の壁面には大きさ形の違った三つの窓をあけています。上下二段の窓は、上部が横長の下地窓、下部が連子窓となっており、小堀遠州が好んだ形式です。窓の数は多いのですが、一方で苆壁の黒い壁面も多く、室内は暗く感じます。それは黒木、すなわち皮付きの木材が多用されており、その手法は、後水尾院好みの水無瀬神宮の燈心亭などと似ています。さりげない形態に公家の好みが組み込まれています。
仁和寺 飛濤亭
仁和寺は真言宗の寺院で、光孝天皇の勅願によって仁和2年(886)に建て始められ、その遺志を継いだ宇多天皇の仁和4年(888)に落成しました。以後皇室との深いつながりをもち、門跡寺院の筆頭としての地位が定着しました。応仁の乱以後、荒廃していましたが、後水尾院の兄、第21世覚深法親王の時代、徳川家光の援助を受けて堂宇が再建されました。
仁和寺にはよく知られた二つの茶室があります。飛濤亭と遼廓亭です。ここでは、光格天皇遺愛の席として伝えられている飛濤亭について見ていきましょう。寛政(1789~1801)の頃、光格帝の兄である深仁法親王が門跡であった時代、行幸のときに帝自らの好みで建てられたものであるといいます。
建物は、入母屋造の茅葺の屋根に、杮葺の庇を二方に廻して土間庇を形成し、足元は漆喰のたたきに小石を散らした意匠となっています。間取りは、洞床をもつ四畳半の席と、水屋、台所が南北に並んでいます。土間庇に面した茶室の入口は、南側に腰障子が建てられた貴人口が設けられ、脇の壁には円窓の下地窓があけられ、その横には袖壁と刀掛が備えられています。なお西側にも明障子が建てられていますが、こちらには沓脱石がなく、明かり採りの開口部です。
内部では、框や落掛を省いた踏込床形式とした洞床が注目されます。床柱は栗でナグリ目が施され、大変侘びた表情を見せています。天井もユニークな構成です。床の間の前を網代天井、点前座の上部を蒲の落天井として、残りの部分に、隅木を架けて矩折れにし、折り紙を対角線で折ったような化粧屋根裏天井としています。通常、化粧屋根裏天井は、侘びた素朴な表現となりますが、ここでは二畳の大きさをもち、高くそびえ、動的な印象を与えます。また壁は、苆を散らした土壁で、ひなびた表現となっています。このように、この席全体は侘びの意匠で構成されていますが、大きく設けられた腰障子の開口部と併せ、大変開放的な空間となっています。侘の要素を明るく軽やかに表現した公家好みの茶室の特徴が、ここに凝縮されています。