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特集 京の茶室 4「町衆の好み」
桐浴 邦夫
室町時代から桃山時代にかけて、堺の町衆たちが南蛮貿易などによってその影響力を増大させました。そして、茶の湯においては武野紹鷗や千利休ら堺出身の彼らの活躍によって、現在の茶室の原形が造り上げられます。その形式は古田織部や小堀遠州ら桃山から江戸初期の武家茶人たちによって受け継がれ、さらに洗練されていきました。一方、公家たちもこの新しい動きに敏感で、雅な意識を侘茶に融合させた形態をつくりあげました。もちろんそこには武家や商人ら、他の文化人たちの関わりもあります。江戸初期のこの総合的な動きを寛永文化と言います。そして千利休の孫である千宗旦によって利休の佗茶が受け継がれ、さらに佗を深化させた茶室を定着させました。江戸初期から中期にかけての町衆たちも当時の千家の茶の影響を受け、あるいは当時の武将や公家たち文化人との交流を深めます。茶の湯文化の発展には、いつも彼らが大きな役割を果たしてきました。
今回は江戸初期から中期にかけて、町衆たちに関わりのある茶室をみていきたいと思います。
西翁院 澱看席
澱看席は金戒光明寺の塔頭、西翁院にあります。「澱看」の名称は近代になってから付けられたものともいわれ、当初、紫雲庵、反古庵などと呼ばれていました。好みは藤村庸軒です。庸軒は、千家とつながりの深かった久田家初代の久田宗栄の次男で、呉服商十二屋の藤村家に養子に入ったとされます(父の代に改姓したとの説もあり)。はじめは薮内紹智に茶の湯を学び、ついで小堀遠州からも学んだともいいます。のちに千宗旦のもとで台子伝授を許され宗旦四天王と呼ばれるようになった町衆の茶人です。
茶室は西翁院の本堂の西に付加されており、床の高い本堂と高さを合わせるため、亀腹の形式を取り入れています。亀腹は建物の足元に盛土をして漆喰でかためたもので、土中からの湿気を防ぐ意味があります。一般には寺社などに用いられる手法ですが、茶室に採用されることは極めて珍しいことです。屋根は柿葺で、天井もその流れに合わせて化粧屋根裏天井となっています。躙口の前面には切妻造の屋根を差し掛け、その下に手水鉢が設置されています。
内部は三畳敷で、炉が向切本勝手、そして下座に構えられた床の間は室床と呼ばれる隅の柱を塗回した形式で、板敷きで墨跡窓を開けています。床柱は杉、床框は杉丸太二つ割りで入節を見せて、落掛も杉で下部が面皮となり、上部の小壁に華鬘(仏殿の内陣を荘厳する仏具)形の額を掛けています。落掛の下部が面皮であるのは、小径木であることを表現したもので、室床や床框の意匠などと合わせて、茶室の素朴さを象徴する方法です。
三畳のこの座敷の形式は宗貞座敷と言われるもので、点前座が壁で囲われています。宗貞とは笹屋宗貞のことで、堺の茶人で、藤村庸軒の門人とも古田織部に師事した人とも伝えられています。この点前座と客座との間に建てられた壁を道安囲あるいは宗貞囲とも呼び(それぞれの言葉は座敷そのもののことを言う場合もあります)、亭主の空間を小さく表現し、次の間のように見せて謙虚な気持ちを表現しています。つまり「もてなし」の構成です。この仕切壁は点前座の大半を客座から隠し、中柱が建てられ、火灯形の給仕口を開けています。点茶の時にはこれを開けて亭主の姿を客に見せるようにします。なお、点前座勝手付(南側)の窓が「淀」見窓、風炉先(西側)が「嵯峨」見窓、とも呼ばれています。いずれも近代になっての命名だと考えられています。
高台寺 鬼瓦席
鬼瓦席は江戸初期の豪商・灰屋紹益の遺愛の茶室で、その邸内にあったものと伝えられています。その紹益は本名を佐野重孝といい、父は本阿弥光悦の甥の光益。当時灰屋と呼ばれた佐野紹由の養子となりました。屋号は紺染めに用いる灰を扱うことからの名称です。紹益は晩年の本阿弥光悦に書画や花を学び、飛鳥井雅章や松花堂昭乗らとも交流があり、和歌や書道、そして茶の湯に造詣が深く「にぎはひ草」という随筆を著すほどの文化人でもありました。一方で六条柳町(のちに島原に移る)の遊里の名妓吉野太夫を近衛信尋と争って身請けしたことでも知られています。
この茶室は明治41年に道具商の土橋嘉兵衛が譲り受け、高台寺に移築されたと伝えられています。屋根の丸額に楽家四代の一入(いちにゅう)作の鬼瓦が掛けてあったことからの名称ですが、現在は点前座脇の壁面に移されています。外観は切妻造の瓦葺屋根の二方に杉皮の庇を廻した形式で、入母屋造風になっています。東側の土間庇には三枚の障子が建てられ、貴人口の形式となっており、南側には躙口があけられています。内部は四畳半で、床の間と付書院を備えています。
天井は細い杉丸太を竿縁にした平天井で、点前座の上部を蒲の落天井として、亭主の空間に謙虚さを表現しています。また点前座の風炉先(前方)の柱は楊枝柱として上部だけを見せ、その下部を土壁の塗回しで見えないようにした手法です。楊枝柱は裏千家の四畳半茶室の又隠などに見られる手法で、曲がった柱、すなわち雑木を使うという素朴さの表現とも、あるいは空間の大きさを不明瞭にして無限を表現したものであるとも考えられます。
この茶室は千宗旦の侘びた手法を受け継ぐものの、付書院や貴人口の形式を取り入れるなど町人貴族的な雰囲気を表現したものです。
高台寺 遺芳庵
遺芳庵は別名吉野窓の席とも言われ、吉野大夫の好みだと伝えられています。吉野大夫は文芸に優れた人物であり、26歳の時、時の豪商灰屋紹益が身請けすることになります。しかしその幸福な生活も長くはなく、38歳にして早世しますが、先立った吉野を偲んで紹益がつくったのがこの茶室だと伝えられています。もっとも、後世の人が紹益と吉野の物語より、それを偲んでつくったものという説もあります。吉野の名は名物裂の吉野間道に残り、それは灰屋紹益が吉野に贈った裂からの命名であると伝えられています。またこの茶室に採用されている大きな円窓も吉野が好んだと伝えられていることから吉野窓と呼ばれています。
遺芳庵は、元は灰屋紹益の屋敷にあったものですが、高台寺の塔頭岡林院に移築され、さらに鬼瓦席の近くに移築されたものです。外観は宝形造茅葺の三角の屋根をもち、正方形に近い壁面に大きな円窓があけられ、丸と三角そして四角が表現されたユニークな形をしています。室内は一畳台目で、向板が嵌められ二畳の大きさとなっています。炉は向切逆勝手、床の間は向板の壁に釘を打ち、掛物が掛けられるようにした壁床の形式です。客の出入口として躙口、亭主の出入口として開き戸形式の茶道口が設けられています。天井は竹簀張りで、炉の上には杉丸太の横木に蛭釘が取り付けられ、釜を釣ることができるように工夫されています。客座側の大円窓、いわゆる吉野窓の内側には障子が建てられていますが、あけることを考えたものではなく、障子に映る円形の光に吉野大夫を偲んだ形式だとも考えられます。
仁和寺 遼廓亭
仁和寺の遼廓亭は尾形光琳の好みで、織田有楽の如庵を写した茶室として知られています。もっとも建築としてはそれを含め、複数の室からなるものです。光琳は京都の呉服商「雁金屋」の当主尾形宗謙の次男として生まれました。のちに画家そして工芸家として活躍しますが、京都の富裕な町衆がその顧客であったといいます。この建物は仁和寺門前の何似家にあったものが移築されたものです。この何似家の邸宅は尾形光琳が建てたともので、その弟尾形乾山の住まいだったと伝えられています。
さて遼廓亭は、二方に縁を廻らせた主室の四畳半と次の間の四畳半、二畳半台目の如庵写しで我前庵とも呼ばれる茶室、そして水屋、控の間、勝手などが付属した建物です。主室の四畳半と次の間の四畳半の間には建具がなくて、天井の高さと平面的にずらした室の配置によって区分しています。またこの室は書院ということもできますが、草庵の要素を十分に取り入れた形式となったもので、藁苆がちりばめられた土壁に、四尺幅の蹴込床を入れ、栗のナグリの床柱が立ちます。その床脇には違棚と地袋が備わります。
如庵写しの席には、本歌と同じく躙口前に壁を建て、土間庇としています。しかし刀掛が設けられ、袖壁に設けられた下地窓が、如庵の円窓に対してここでは四角形です。内部は点前座を少し下げた扱いとして、その前に半畳と火灯口のあけられた板が立ち上がります。謙虚さを表現し、かつ点前座に光を届ける工夫です。一方で客座との食い違い部分には三角形の鱗板を入れて動線の確保と意匠的なおもしろさを表現しています。床の間は苆壁で素朴さを表現する一方で、塗りの框を設けて、格式を表現しています。客を「もてなす」形式です。ただ竹を詰め打ちした有楽窓は設けておらず、通常の連子窓の形式となっています。この茶室は本歌と比較して、全体に細い材料を使用し、より洗練された表現となっています。
主室の書院などと併せ、江戸中期の町衆たちの風趣を楽しむ形態が良く伝えられたものだとみることができるでしょう。