学ぶ
特集 京都の文化遺産の保存と継承 3 「京都の剣鉾」
伊達 仁美
はじめに
「剣鉾」が巡行する祭礼行事は、京都とその周辺に多く見られる地域色豊かな貴重な民俗文化です。剣鉾は、祇園祭の山鉾と同じく御霊信仰における呪具であり、また神社の祭具ではなく、鉾町や鉾仲間といった氏子のなかの一部の集団で護持され、巡行に際しては、鉾差しを他所から招くというものです。このような典型的な「剣鉾のまつり」は、上御霊神社、下御霊神社、岡崎神社、須賀神社など、御霊をまつる神社の祭礼が発祥と考えられます。
しかし、本来の目的であった悪霊を鎮める御霊信仰だけではなく、厄神を追い払うための神座として、用いられるようになりました。また、京都の市中や近郊の村落に広がっていったことには、高く差し上げられた棹の先につけられた錺、そして剣がしなりながらキラキラと光り、リズミカルに鳴る鈴、たなびく吹散といった華やかさにあこがれて、自分たちの集落に持ち帰ったものとも考えられています。本稿では、平成22~25年度にかけて、京都市が文化庁の補助を受けて実施した剣鉾調査の成果の一部を紹介します。
1.剣鉾の構成部材について(図1参照)
「剣鉾」は、剣の形をした鉾で、長さ5~6mの棹の先に額や錺(かざり)とともに取り付けられています。剣は、銅と亜鉛の合金である真鍮製のものが多く、地域によって異なりますが、おおよその長さは1.2m~1.5m、厚みは、薄いところで1㎜、厚いところで4~5㎜となっています。剣先が菱形に張り出し、薄く平坦な剣身の中央には縦にスリットが入っています。剣と棹の間には錺受として、社号を表した額やご神体を配置することが多く、その左右には、様々な意匠の錺金具が取り付けられています。剣をきれいにしならせる大切な部材である剣挟は、50~60cmの竹や樫の木で作られており、2本を1セットとし、剣尻部分を裏表の両面から挟み込みます。剣の表と裏、剣に対してどれだけ出すかは、決まった数値はなく、鉾差したちが現場で調整します。それらを受金でまとめ、棹に差し込みます。
錺金具と剣、剣挟の固定には赤や紫に染めたひもを用いますが、これも固定の強弱は剣挟と同様、鉾差しの技量の一つとなってきます。
棹には吹き散りという祇園祭の山鉾の見送りにあたる長い布を下げ、さらに鈴をつけて、棹に取り付けた鈴当てに当てながら巡行します。その重量は30kgにもおよびます。
2.剣鉾の差し方について
これらは、「鉾差し」という特殊技能を持った集団によって取り仕切られていました。今でもその一部を垣間見ることができます。現在、京都市内の剣鉾は、鉾の差し方により東山、梅ケ畑、嵯峨、鞍馬、その他に分けることができます。
東山は、前後方向に剣がしなる差し方で、特に前方に大きくしなり、剣のしなりと鈴が同期している動きが特徴的です。現在では、大豊神社、八大神社、須賀神社、新日吉神社、下御霊神社、吉田神社今宮社、西院春日神社、北白川天神宮、粟田神社が該当します(写真1)。梅ケ畑は東山と同様、大きくしならせますが、東山と違うのは、着流し姿であることや草履ばきであること、足を交互に踏み出すなど、普通に歩くように差すということが特徴です。平岡八幡宮の一之瀬町、平岡町、中島町、善妙寺町が該当します(写真2)。嵯峨では、棹を中心として、身体ごと左右に回転させ、棹は抱きかかえるように体に密着して差します。足の運びは、飛び跳ねるようにステップを刻んだり(大門町、中院町、鳥居本町、四区)、すり足で体を沈み込ませるようにしたり(天竜寺地区)違いはありますが、剣のしなりと鈴は同期せず、錺の両端につけられた房が棹の回転による遠心力で水平方向に広がるのが見どころです。嵯峨祭(愛宕神社・野々宮神社)が該当します(写真3)。鞍馬は、四本鉾と一本鉾が存在します。四本鉾とは、鉾頭が付くオヤバシラと左、右、後の3本がそれを支えます。オヤバシラには、下から50cmくらいのところに水平方向に横棒が取り付けられており、それを両手で持ち、棹を斜め方向に肩に当てて巡行します。由岐神社(鞍馬の火祭)の僧達仲間、名主仲間、上大惣仲間、中大惣仲間、下大惣仲間が該当します(写真4)。
一方、鞍馬火祭りに見られる一本鉾(中大惣仲間、下大惣仲間、大工衆仲間)はその他の差し方で、棹や剣が他の地域に比べ短めで、差し革(差し袋)を用いずに両手で持って巡行します。
3、剣の材質について
剣の多くは、真鍮という銅と亜鉛の合金で作られています。銅が多いと柔らかく、亜鉛が多いと硬い仕上がりとなります。剣先をしならせながら巡行するという剣鉾の目的から見ると、柔らかければ差した際にしなりすぎて戻る力がなくなり、逆に硬いとしなりが出ません。筆者が蛍光エックス線分析により、剣の金属配合比を分析したところ、多くの剣は、30~40%の亜鉛を含んだ真鍮が用いられていることが分かりました。この割合は、真鍮として最大の延展性を持ち、色も金色に輝いて美しいものとなります。
このように鉾に用いられている真鍮の銅と亜鉛の配合比を分析することで剣の材質や延展法と、差し方との関係を明らかにすることができます。さらに以前は、鉾差しによる巡行が行なわれていた地域でも現在では居祭りとして、室内に飾るだけになった地域も少なくありません。しかしこれらの中には、当初より、居祭り用として作られた剣鉾や、曳車に載せたり、舁いて巡行することを前提に作られた剣鉾もあると考えられ、その差異も今後の調査から明らかにすることが期待されます。
真鍮は、銅と亜鉛の合金で、銅は古代より使用されてきた金属ですが、亜鉛については、融点が419度と他の金属より低く、923度で沸点に達します。そのため、亜鉛を単体で精錬することは難しく、その技術は15世紀のインドで確立されたといわれ、17世紀になり中国で量産的に亜鉛製造が始まりました。また、銅の融点は1084.6度であることから、液状の銅に亜鉛を投入した時点で、亜鉛は蒸発してしまうということからも、真鍮生産が難しいものであったことがわかります。京都においては、延宝6年(1678)の『京雀跡追』や、元禄2年(1689)の『京羽二重織留』に「しんちうや(真鍮屋)」、「真鍮問屋」と紹介されていることから、江戸中期に入るころには、吹屋による生産体制が整っていたと思われます。
剣自体に製作年が刻まれているものは、筆者等が調査したところ、85本ありました。一番古いものでは、延喜8年(908)の北白川天神宮の壱ノ鉾(黒鉾)ですが、これは鉄製で、使用したことは確認できていません。ちなみに300本あまりの調査を行った中では、唯一の鉄製の剣でした。真鍮製では、正保3年(1646)の長谷八幡宮の扇鉾でしたが、この年号は茎に刻まれています。茎部分は銅に鍍金がされており、真鍮製の剣部分とは明らかに材質が異なり、剣が後補として茎に接合されている可能性が考えられます。
次に古いものは、明暦2年(1656)の北白川天神宮の弐ノ鉾です。しかし、茎に刻まれた製作年は、錺職人が、製作の際に刻んだものとしては特殊な書体であり、後から刻まれたものではないかとも考えられます。
実際に剣に刻まれている年号は、18世紀中ごろから突然多くなります。これは銅と亜鉛の合金を作り出す技術が確立し、真鍮が日本国内で安定供給され始めた年代と重なっています。京都では前述のように17世紀後半には、真鍮屋や真鍮問屋があり、剣に刻まれた年号からもそれらをいち早く祭礼用具に取り入れたことに、京都の町衆の力が感じられます。
以上、京都市の調査事業では、民俗学、民具学、文献史学等の専門家に加え、筆者が専門領域の一つとする保存修復の視点からも科学的な分析を行うことで、剣鉾のまつりを多方向からとらえることができたと思います。
公益財団法人京都市文化観光資源保護財団が設立50周年を迎えられました。財団では、これまで有形無形にかかわらず、様々な文化観光資源の保護に力を注ぎ、支援されてきましたことに、厚く御礼申し上げます。
今回ご紹介しました剣鉾のまつりのような、町衆が守り継承してきた民俗文化にも焦点をあて、保護される取り組みにも引き続きご支援いただきます様、よろしくお願い致します。
なお記念事業としまして、12月15日(日)ロームシアターで「都の賑わい 祭 神人和楽のまつり『祇園祭』が開催されます。記念公演とともに剣鉾も実演されます。
参考文献:
『京都 剣鉾のまつり調査報告書』1論説編・2民俗調査編・3資料編 京都の民俗文化総合活性化プロジェクト実行委員会編 2014年
『京都市文化財ブックス第29集 剣鉾のまつり』京都市市民局文化芸術都市推進室 文化財保護課 2015年
『民族藝術』Vol.31「剣鉾の意匠についての一考察」福持昌之 民俗芸術学会編2015年