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特集 京都の庭園文化 4
菅沼 裕
日本庭園に限らず、庭園は、おおまかにいえば、石と土、水と植物から作られています。今では地球の反対側から植物を取り寄せたり、何十トンとある大石をクレーンで吊り上げて据えることもできますが、運搬手段が限られていた江戸時代までは、庭に必要な材料は近在から集めるのが基本でした。
逆に言えば、遠方の材料を集められるということは、その人が政治的・経済的に大きな力を持っていたということになります。庭に貴重な珍しい材料を使ったということは、他の庭には無い独特の景が生まれるだけではなく、そこに住まう人の権力を如実に物語るものでもあったのです。
その結果、珍しい石を権力の象徴として、自分の邸宅や身近な寺院などに据えるといったことも行われます。醍醐寺三宝院庭園にある藤戸石はその好例ですが、藤戸石ほどでなくとも、近在の石には無い色合いや大きさ、質感を持った石は、他の石より映えて人の視線をひきつけるため、庭石には格好の材料となりました。
これに対して、樹木は石ほど遠方から持ち込むということはなかったようです。他の材料と違い、生かしたまま運ばなければならなかったこと、持って来て植えても必ず根付くとは限らないといったことが障害になっていたと思われます。慈照寺(銀閣寺)を作った足利義政は、こうした問題を解決するため、権力に物を言わせ、手っ取り早く京都や奈良の寺社や邸宅の庭園から樹木や石を徴発するという挙に出ます。もともと庭園に植えられていたわけですから、姿形も整っており、中には珍しい樹木や石もあったでしょうから名案といえば名案ですが、さすがにこれはやり過ぎでしょう。
こうした通例に反して、遠方から持ち込まれて、京都の庭園でもまま見かける樹木の一つにソテツが挙げられます。ソテツは鹿児島県を自生地北限とした南方系の樹木で、室町時代の長享2年(1488)の記録に「ソテツ」とかなで書かれているのが初出とされています。長禄4年(=寛正元年)(1460)の「蘇木」をソテツの初見としている研究もありますが、「蘇木」とは、東南アジア原産で染料や漢方薬として平安時代から利用されていた「蘇芳」(スオウ)のことと思われます。
ただ、ソテツもスオウも南方の産物であるために、運んで来るには船と安全な航路の確保が欠かせません。もともと日本では、こうした南方の産物は中国を経由して輸入していたのですが、室町時代、中国を治めていた明は、時を経るに従って鎖国的な政策を採るようになり、東南アジア諸国との交易の窓口を朝貢国であった琉球が務めることとなりました。その結果、交易ルートがそれまでの神戸や大阪から瀬戸内海、博多、中国といった経路から、瀬戸内海(あるいは四国南岸)、九州東部、琉球という経路に変わって行くこととなりました。
この新ルートの中継地となったのが島津氏の治めていた薩摩です。15世紀の中頃には、ソテツの自生地である東南アジア・沖縄・鹿児島と、都である京都が結ばれ、南蛮渡来の品々と共に、ソテツも京都にもたらされたと考えると、庭木などの庭園の素材の流通も政治・経済状況の変化と無関係にはいられないことがわかります。
こうして室町時代に輸入されたソテツは、普通の樹木とは全く異なる樹形が異国情緒を醸し出していたためか、根強い人気を保ち、安土桃山時代、江戸時代の庭園にしばしば用いられるようになりました。豊臣秀吉の聚楽第にも植えられていましたし、京都では、西本願寺の大書院庭園(虎渓の庭)や桂離宮、仙洞御所にあるものが有名です。裕福な商家に植えられることもあったようで、歌川(安藤)広重の有名な『東海道五十三次』を見ると、赤坂の宿屋の中庭にソテツが描かれています。
このように、中国の政治状況の変化によって京都にもたらされたと考えられるソテツですが、封建社会から近代社会へという、日本の政治の大きな変化を象徴する大政奉還の場となった二条城の二之丸庭園にも植えられています。今回は二条城二之丸庭園をソテツにまつわる様々な事柄とともにご紹介します。
二条城は、慶長8年(1603)に徳川家康が将軍任官拝賀など、朝廷に対しての儀式を行うための拠点として造営され、その後も拡張・整備が行われ、寛永年間(1624~1644)に完成しました。二之丸には造営当初から庭園が作られていましたが、残されている古図を見ると、現在の庭園とはかなり状況が異なっているため、古い庭園を改修したのか、実質的に新しく庭園を作り直したのかはよくわかっていません。
いずれにしても、寛永年間の造営で奉行の一人として、庭園などの作事に携わったのが作庭家・茶人として有名な小堀遠州です。二之丸御殿の建物に面した池には、大きな石橋が架けられ、細長い青色の立石が据えられ、松などとともにソテツも植えられています。
寛永年間の造営では、池の南側に後水尾天皇を迎える行幸御殿が作られました。行幸の後に撤去されたため、現在は礎石が残るだけですが、池に突き出すように亭(ちん)が建てられて庭園を一望できるようになっており、庭園から一歩離れる形で眺めることになる二之丸の御殿からとはまた違った雰囲気が楽しめたものと思われます。
庭園を見てまず気付くのが、池岸に縦に据えられている多くの青い石です。俗に青石と呼ばれますが、正確には結晶片岩といわれる石で、紀伊半島や四国で多く産出する石です。雨が降って濡れると一段と鮮やかな色合いになるため、多くの庭園で使われていますが、ここまでの数を据えているところはそうはありません。単に景物として美しいというだけでなく、これだけの石を集められるという徳川幕府の力を示していることが窺えます。
もう一つ、こうした徳川幕府の威を示しているのがソテツです。資料によると、寛永年間当初には60本あまりのソテツが植えられていたとあるので、庭園には青石とソテツが林立していたようです。本数の多さから、ソテツのほとんどは自生地の琉球か薩摩から運んで来たものと考えられますが、これはすなわち、関ヶ原で西軍に属していた薩摩島津氏も徳川家の威に伏している、つまり徳川幕府が日本全土を掌握していることを象徴しています。
加えて、二之丸御殿の建物からは庭園の背後に天守台が見えていました。二条城の天守台は、たとえば大阪城の天守閣のような大きな建物ではありませんでしたが、逆に庭園の背後遠くに天守がそびえるように見え、城の敷地がより広大に感じられたのではないかと思われます。ソテツのことも考えると、昔と今とでは庭を見た時の印象はだいぶ違い、かつては天守台を背景に、異国情緒の溢れる庭園であったと思われます。
ご存知のように、二条城は、後水尾天皇の行幸以後、幕末になるまで使われることがなく、人間に例えるならごく穏やかに過ごしていたわけですが、二之丸庭園に植えられたソテツ達にはいくつもの試練が待ち構えていました。
承応2年(1653)、京都御所が炎上し、急ピッチで再建が進められていましたが、小御所の庭に植えられていたソテツが火事で焼けてしまったため、代わりのソテツが必要となりました。しかし、入手が困難なゆえ、二条城のソテツを移植することとなり、15本が京都御所に移ることとなりました。
その後も京都の底冷えに耐えられなかったのか、徐々に本数を減らしていたようで、80年ほど後の享保15年(1730)には15本になってしまいますが、貴重な樹木ということで15本それぞれの詳細な図面が残されています。
そして、明治維新を迎えた二条城は、京都府庁、陸軍省を所管を変えて後、宮内省所管の離宮(二条離宮)となりますが、水の供給が途絶えたため、二之丸庭園の池は枯池として再整備されます。この時期の写真にもソテツが写っており、幾多の困難を乗り越えて、300年近い樹齢を迎えていたものと想像されます。
その後、昭和になって再び池に水が満たされ、二条城が宮内省から京都市に下賜されて広く一般に公開されるようになり、多くの人々が訪れるようになった現在もソテツは健在です。庭は文化財として昔の姿を保存しなければならないものであると同時に、時の流れに従って移ろいゆく存在でもあります。二条城のソテツを見て、かつての姿を思い起こしながら、今の庭の姿を楽しんでみてはいかがでしょうか。